第四十七話 なにも言わずに来週

★★★

五月の連休が終わると、名古屋は一気に夏の気配をあらわにする。

アスファルトが溶けそうに暑い夏を前にして、町じゅうの人間のせわしなさが上昇する。

松ヶ峰聡まつがみね さとしは名古屋生まれの名古屋育ちだ。夏の殺人的な暑さも冬の湿った寒気も、うんざりするがきらいではない。

それは、東京とも大阪ともちがう“巨大な田舎”である名古屋特有の、自然に引きずられるような四季のうつわりだ。


そんなことを考えながら、聡は大正時代に建てられた古い洋館・松ヶ峰まつがみね邸の自室から金色に輝く夕暮れの風景を眺めている。

そこへ、とんとんというつつましい足音が一階かららせん階段を上ってくる音が聞こえた。この軽さは、聡の家族である藤島環ふじしまたまきの足音だ。

すぐにひかえめな、ノックの音がした。


「サト兄さん?お呼びですか」

「お呼びしたよ」


聡はひょいと出窓でまどから跳ぶようにおりて、寝室と書斎の二間が続いている自室を横切り重いドアを開けた。


「早く入ってくれ、たまちゃん。俺がここにいるってことを、音也おとやに見つかりたくないんだ」


聡は部屋から首を突き出し、木細工ぎざいくの廊下を見まわしてから、亀のように首を引っ込めて環を部屋に引き入れた。


「音也さんに、みつかりたくない?どうしてですか」


環は濃紺の半そでワンピースに白いカーディガンをあわせている。非常に清楚なコーディネイトではあるが、ややぽっちゃりしている環が着ると色気は消え失せる。

聡はポリポリと頭をかき、


「あいつに見つかったら、ド叱られるんだ。ホントはもう商店街の夏祭り準備にいってなくちゃいけないから」


松ヶ峰聡まつがみね さとしは、非公式とはいえすでに衆院選への出馬を表明している立候補予定者だ。選挙準備に奔走している秘書の楠音也くすのき おとやと同じく、身体がいくつあっても足りない。

あらゆる場所へ行き、人に会い、顔と名前を売り歩く。それが今の聡にせられた使命だった。


だからほんとうは、初夏の夕方に自分の寝室にいるひまなどない。

環は白シャツにダメージジーンズをはいただけの聡のラフな格好をじろっと見て


「では、早く用をすませて商店街へ行ってください」

「うん、まあね」


と聡がグズグズと言いしぶっていると、ついにおとなしい環が眉間にうっすらとしわを立てはじめた。

それを見た聡はついに時間稼じかんかせぎをあきらめ、いきなり環に向かって頭を下げた。


「悪い!なにも言わずに来週、いっしょに東京に行ってくれ、たまちゃん」

「はあ?」


藤島環のふっくらとした丸い顔が、たちまちびっくりしたように伸びあがった。

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