第四十六話 この羽根が乾ききったら、きっと俺は飛べる
やがて首を左右に振る。
「いいえ。はじめてみました。あっ、裏に刻印がしてありますよ」
聡がのぞき込むと、ロレックスの裏面にK・Sという刻印がしてあった。
「イニシャルかな」
「そうかもしれません。ずいぶん古いものですから、以前の持ち主が入れた刻印かもしれませんね」
「Kはおふくろの“
「そうなんですか」
聡の隣で環が目をまるくした。
聡は少し困ったように笑い、ちょんと環の小さな鼻をつついた。
「このサイズの時計なら、男ものだろ? おふくろは、君にそんなことさえも教えなかったんだな」
「時計のことは何も知りません」
「時計のことじゃない、男が身に
「男性に送るものはネクタイ一択です。紀沙おばさまから、そう教わりました」
環が少し憤然とした様子で答えた。それを見て、また聡が笑う。
「ネクタイねえ。たとえばどこのネクタイだ?」
「フェラガモ、グッチ、ジバンシイ。この三つなら間違いないと言われました」
「じいさんにやるものばかりだな……アルマーニ、ポールスミス、エルメスは?」
「エルメスは、濃紺で小さい水玉柄ならどんな方にでもお贈りできます。あの、それってこの時計と何か関係がありますか?」
藤島環はふっくらした頬をかたむけて、聡に尋ねた。まっすぐすぎる質問に、聡も苦笑するほかない。
「その時計とネクタイは何の関係もない。だけどこれからは、君の教育も俺がすべきだな」
「ネクタイの教育ですか?」
「男についての教育。なあ、たまちゃん。今さら、ろくでもない男に引っかかったら承知しねえぞ」
「どんな方だろうが、私は男の人には引っかかりません――あっ、Sは“さとし”のSじゃないですか」
ふいに環がそんなことを言い出したので、聡はもう身体を
「おふくろのKと、おれのS。親子のイニシャルを男もののロレックスの裏に入れて、どうしようってんだよ」
「でも私は、“ふじしま”と“たまき”ですから、KもSもありません。それにこれは、おばさまが大切にしていらしたものなんでしょう、だからきっとサト兄さんの……ねえ、いつまで笑っていらっしゃるんですか」
聡はもう目じりに涙をためながら、笑い続けた。
「たまちゃん、ありがとう」
「なにがですか」
「俺、おふくろが死んで以来はじめて本気で笑ったよ。くそ、涙が出てくるほど笑える。たまちゃん、君も笑えよ」
「おかしくもないのに笑えません」
ははは、と聡はいつまでも笑いながら、同時に涙が止めようもなく出てくるのを感じた。
家族は、生きる理由をもたらしてくれるものだ。
そして聡の家族は、いま聡の目の前で
四月の太陽がかげってゆく。
亡き母のアトリエで笑い続ける松ヶ峰聡の背中には、生まれたばかりのセミのような、透明で
この羽根が乾ききったら、きっと俺は飛べる。
聡には、そんな確信がある。
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