第百四十四話 こんなことを頼む以上

「お一部屋ひとへや…」


午後三時のコルヌイエホテル・メインロビーで、藤島環ふじしまたまきはぼうぜんと美貌のホテルマン・井上いのうえの言葉を繰り返した。

しかしすぐに気を取り直して、ぽっちゃりとした手を軽く胸に当てて答えた。


「ええ、一部屋でかまいません。今日はこちらに泊まれればいいんです。ありがとうございます」


環がそう言うと、井上はきれいな目元をかすかにゆるめて


「こちらこそ、ありがとうございます。こんな不手際ふてぎわはホテルマンにあるまじきことなのですが、藤島さまですので恥を申し上げます。

どうぞご寛恕かんじょください」


そう言うと優雅なホテルマンは華やかなメインロビーでかっきりと頭を下げ、それからテキパキと環の足元にある二人分の荷物を手にした。


「どうぞこちらへ。お部屋にご案内いたします」


井上は環と今野こんのを引き連れ、まるでいたれた役者のようにゲストのあいだをぬってエレベーターに二人をのせた。

環たちはそのまま井上の後についてエレベーターをおり、ふかふかの赤いカーペットを敷きつめた廊下を進んだ。

やがて井上がドアの前で立ち止まり、プラスチックのカードキーで部屋を開ける。


「本日は、こちらのお部屋でおすごしくださいませ」


井上に言われて部屋に入り、環は目を見はった。背後の井上を振りかえり


「井上さん、ここは」


環たちが案内された部屋は、リビングエリアに寝室が別についているジュニアスイートだ。リビングから続くドアの向こうに、巨大なクイーンサイズのベッドが置いてあるのが環に見えた。


同じタイプのツインの客室に、環は親代わりの松ヶ峰紀沙まつがみね きさとともに何度も泊まったことがある。

そして都内有数の高級ホテルのジュニアスイートが一泊いくらするのかも。


環はあわてて言った。


「井上さん。この部屋では予約したツインと料金が違いすぎます。追加分は請求をしてください」


端正なホテルマンはにこりとわらって環の言葉を押しとどめ、


「本日はほかにご案内できるお部屋がなくて、ご不便をおかけいたします。そうだ、お部屋変更のおわびと申し上げてはいけないのですが、ご飲食のさいはこちらをお持ちくださいませ」


とチャコールグレーのダークスーツの内ポケットから名刺ケースを取り出し、自分の名刺にさらさらと何かを書きつけて、今野に向かって差し出した。


「コルヌイエ内の飲食店で、お好きなものをお申しつけくださいませ。この名刺を出してくだされば、無料でご提供させていただきます。これでどうか、わたくしの不手際ふてぎわについてはご内密に願います」


そういっていたずらっこのような表情を残し、井上は一礼して部屋を出ていった。その後を、なぜか今野が追う。

環もドアまで行き、そこでふと足を止めた。まだわずかに開いているドアから、廊下にいる今野と井上が話している声が聞こえたのだ。


「井上さん、あの、差額はチェックアウトの時に俺が払いますから―――」


今野の息せききった声を、井上のテノールがやんわりと押さえた。


「とんでもない。今日のところは、わたくしの不手際ということにしておきましょう」

「いえ。俺だって、金はちゃんと持ってきたんです。コルヌイエのスイートの料金は調べてきました」


少し早口で、今野がそう言うのが環に聞こえた。

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