第百四十三話 端正なホテルマン

藤島環ふじしまたまきの親代わりであった松ヶ峰紀沙まつがみね きさは、たった今コルヌイエホテルのレセプションカウンターにいる美貌のホテルマン・井上いのうえがお気に入りだった。


井上は百八十センチをゆうに超える長身と整った顔だちの持ち主だが、紀沙が気に入っていたのはその外見ではなかった。

優美な井上の外見に隠された圧倒的な機能性にこそ、松ヶ峰紀沙はこの男の価値を見出していたのだ。


『井上さんがいれば、安心』


このフレーズは、紀沙が環を連れてコルヌイエホテルに投宿とうしゅくするたびに出た文句だった。そして松ヶ峰家が泊まるたびに井上がレセプションカウンターで迎えてくれた。

もっともそれは当たり前のことで、何ごとにも用意周到よういしゅうとうな紀沙は、井上がいると分かっている日を選んで予約を入れていたのだ。


そして井上も定期的に地方から出て来る地方財閥の家族に対して、最上級のホスピタリティを提供してくれた。松ヶ峰家の東京滞在中はほとんど休みを取らず、つねにレセプションカウンターで勤務していた。

松ヶ峰家の、もっと言えば松ヶ峰紀沙の突拍子とっぴょうしもないわがままにすみやかに対応するためだ。


今日も、環の急な予約にかかわらず井上は日程を調整しておいてくれたのだろう。

そして今野と二人のやや不安な旅で、井上の何もかもを心得こころえた笑顔を見た瞬間は、環にとってようやく安心できた瞬間だった。


環が華やかな午後のメインロビーでほのぼのと微笑んでいたとき、井上がレセプションカウンターから出てきて、今野とともに歩いてきた。

今日の井上はチャコールグレーのひんの良いダークスーツを着ている。


「藤島さま、いらっしゃいませ」


井上の少し甘いテノールの声がいつものようにゆったりと、環に話しかけた。


「紀沙さまのこと、おやみ申し上げます」

「そのせつはおばの好きだったスイートピーを弔花にいただきまして、ありがとうございました」


環がていねいに頭を下げると、井上は美しい切れ長の目をシルバーフレームの眼鏡の奥でわずかにそばめた。


「さぞかしお悲しみのことでしょうが、どうぞ藤島さまもお力落としのございませんように―――それから、本日はわたくしからおび申し上げねばならないことがございまして」

「おわび?井上さんからですか?」


環は小さな目を見はって端正なホテルマンを見上げた。井上は秀麗な美貌をかすかにくもらせて


「藤島さまのご予約はわたくしが手配させていただいたのですが、こちらのほうで手ちがいがございまして―――本日、ツインのお部屋がご用意できておりません」

「まあ」


と、環は口元に手を当てて小さく叫んだ。


「どうしましょう。今日はこちらで人と会う約束があるんです。できたら宿泊したいのですが」


井上は環が子供のころに知り合ってもう十年ちかくになるが、予約ミスなど一度もしたことはない。

どこかで環とホテル側のやりとりにミスがあったのだろう。

やはり紀沙が一緒にいなければだめなのかと環がせつなく思ったとき、井上が軽くうなずいた。


「まことに申しわけございません。そこで、かわりのお部屋をこちらでご用意させていただけませんでしょうか?

本日はあいにくガーデン棟もタワー棟もツインは満室になっておりますので、メイン棟で空いているお一部屋ひとへやへのご案内になりますが」

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