第百四十五話 のこされたプリンセス

井上いのうえのベテランホテルマンらしい滑舌かつぜつの良い声が、スイートルームのドアごしにたまきに聞こえた。


「わたくしも藤島ふじしまさまが不承知ふしょうちなら、こんなことはいたしません。

しかしお部屋の様子をご覧になっても、藤島さまは一言もおっしゃらなかった。

つまり、という事でしょう。だとしたら、わたくしにできることは料金に関する事だけでしてね」


とここまで行って井上は言葉を切り、あとはわずかに声を落として、ホテルマンらしからぬ声で今野こんのに言った。


「おれだって、たまには若い二人のキューピッドになってみたいんですよ」

「あ…ありがとうございましたっ」


今野の勢いがいい声に、井上の柔らかいテノールがかぶさる。


「そのかわり、あのかたを大切にしてください。我々コルヌイエホテルマンにとっては、のこされたプリンセスのようなお客さまなんです」


低い笑い声とともに、コルヌイエホテルの廊下に敷かれた毛足の長いカーペットを踏む靴音が遠ざかっていった。

環が部屋の中に戻ろうとしたとき、一瞬早く、今野がドアをあけた。

ドアのところで、環と今野が鉢合はちあわせになる。


環の顔が真っ赤になると、今野はさっきの会話を聞かれたと察知したのだろう。こちらも顔を赤らめ


「かっこわりいな、俺」


とつぶやいた。

環はうつむいてもじもじしていたが、やがてうつむいたまま小さく言った。


「今野さん―――ありがとう」

「おこってない?環ちゃん?」

「怒る?いいえ、ぜんぜん」

「よかった。せっかくだからさ、スイートに泊まりたかったんだよ。だって、カノジョとの初めてのお泊りじゃん」


かあああっと、環の頬があつくなる。

今野の言う”カノジョ”という音には、若い男の照れと独占欲が詰まっていた。

環のなかに、ほのぼのとあたたかいものがわいてくる。


「今野さん」

「ん?なに」

「ありがとう」


環がもう一度そう言うと、今野はガリガリと頭をひっかき、荷物をもって奥の寝室に入っていった。

それからすぐに声をあげた。


「うわ!環ちゃん、来てみなよ。この部屋、すげえよ」


環が部屋に入ってみると、今野は天井から床までの大きなガラス窓から眼下にひろがる日本庭園を興奮して眺めていた。


「そっちの部屋もすごいけどさ、ベッドからもこの庭が見えるんだね。庭…っていうか森だよね。滝もあるし」

「このホテルの敷地は、もともと戦前の宮家みやけのものだったらしいですよ」


環はにこにこしながら答えた。

そして、今野の明るい興奮にはがあると思った。そばにいる人を無条件で明るくさせるものだ。

このひとは政治家に向いているかもしれない、と環は初めて考えた。


さとしは前からそう言っていたのだが、環はちょっと同意できないと思っていた。

しかし聡はさすがに名古屋で四代続く政治の家に生まれただけあって、人を見る目がそなわっているようだ。たしかに今野には「政治家の資質」がある。

そう思った瞬間、環は『このひとのそばにいたい』と何のためらいもなく思った。


このひとのそばにいて、この男が大きくなるところを見ていたい。

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