第百五十一話 恋に落ちた理由

城見龍里しろみりゅうりは、コルヌイエホテルの日本庭園で滝をバックにして軽く腕を組んで立っていた。その背後に、藤島環ふじしまたまきは滝と滝の向こうにあるホテルのメイン棟を見た。


あのメイン棟の一部屋には、たまきのためなら何もかもを放りだしてでも駆けつけると言った男がいる。恋人にないしょで高級ホテルのスイートルームをこっそり手配してくれた男が、環の帰りを待っている。

今すぐ今野の待つ部屋に戻りたいと環は思った。


知りたくない、もうこれ以上は紀沙きさおばの秘密を知りたくない。

紀沙が亡くなってからつぎつぎにあふれ出して来たたくさんの秘密は、どれもこれも、環に環自身のふがいなさを突きつけてくるようだった。


おまえがしっかりしていなかったから、紀沙おばは再婚さえできなかったのだ。

環がいなければ、紀沙の人生はまるで違うものになっていたのではないだろうか。

だとしたら、環にがある。


なにかほんの小さなボタンがけちがっていたら、松ヶ峰紀沙まつがみね きさはもっと幸せな人生を歩んでいたのではないだろうか。

環はかすかに涙ぐみながら、目の前の男を見た。


城見龍里。

長身で敏捷びんしょうそうな身体を持ち、美男ではないが女の目を引く顔立ちをした男。

少し恥ずかしそうなどこか照れているような大きな肩と背中を見れば、二十歳そこそこの古橋紀沙ふるはしきさが城見との恋に落ちた理由さえわかる気がする。


それから数十年がたって城見と再会したとき、紀沙が再婚しようと思っても不思議はない。それだけの魅力が、六十二歳になる城見にはまだ十分に残っていた。

環はもう一度、ゆっくりと考えを口に出した。


「おばは、あなたと再婚するつもりだったんですね。そのために、頻繁ひんぱんに連絡を取っていたのでしょう?」


しかし城見は首を横に振った。


「ちがう。紀沙がおれとやり取りをしていたのは、それが”約束”だったからだ。彼女は毎月きちんと連絡をこしたよ。手紙、写真、動画。

最近はメールで画像や動画を送って来た。おれはそれを、むさぼるように見た」

「写真?動画?いったい何がうつっていたんです?」


環がいきせききってたずねても、城見は何も言わずに笑って手の中のロレックスを眺めていた。

コルヌイエホテルの大滝が、水音を立てて流れ落ちている。

やがて城見は手にした時計をそのまま環の前に差し出した。

環は混乱しながらつぶやく。


「やはり、この時計は受け取っていただけませんか。おばの形見かたみになるものですが」


環の言葉に城見はニコリと笑った。

目じりにしわが寄り、愛嬌あいきょうのある顔立ちがたちまち女を引き寄せる誘蛾灯ゆうがとうのようになる。

それから城見龍里は、藤島環のおだやかな世界を叩きつぶす一言を口にした。


「これは、君がとっておきなさい環。今となってはだから」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る