第百五十二話 ”環”

藤島環ふじしまたまきの目の前で、コルヌイエホテルの大滝が流れ落ちていく。

かつて大名屋敷として静かに過ごし、やがて宮家みやけの庭に、今では都内有数の高級ホテルの庭園に生まれかわった広大な庭の六メートルの高さから水が落ちてくる。


藤島環と城見龍里しろみりゅうりは、水が落ちる滝つぼの前に立っている。

ふたりで。

だがその背後には、あまりにもあっけなくこの世を去った松ヶ峰紀沙まつがみね きさの濃厚な気配があった。


「いったい何を言って…それに、って。私、たまきだと名乗なのりましたでしょうか」


環がふるえる声でたずねると、城見はしみとおるような笑顔で答えた。


「いや。名乗らなかったよ。しかし君のおかあさんは、君が生まれる前から名前を”環”だと決めていた。たまきなら男の子でも女の子でも使えると。

だからおれは、君が生まれる前から君の名前だけは知っていたんだ」

「いえ、まちがいです。私は藤島環ふじしまたまきです。以前、なにかの手続きで住民票を取ったことがあるんです。

両親の名前は”藤島”で、続柄つづきがらも”長女”になっていました」


うん、と城見は柔らかくうなずいた。


「紀沙は、君を生んですぐに藤島家に特別養子縁組を頼んだ。だから戸籍謄本こせきとうほんを取らないかぎり、君が藤島家の養女だということは分からない。

そういうふうに、したんだ。紀沙と北方きたかたが」

「北方…御稲みしね先生もご存知ぞんじのことなんですか」


環はぼんやりとつぶやいた。

なるほど、紀沙と御稲がやったくわだてなら疎漏そろうがあろうはずがない。

環には分からないよう巧妙にカモフラージュがしてあったはずだ。


「おれと紀沙はね」


と城見は環が時計をとろうとしないので、あいている右手でロレックスを取り上げた。


「おれと紀沙はごく若いうちに出会った。おれは結婚するつもりでいたが、紀沙は利口りこうな女だからこんな男に一生をかけられないと思ったんだろう。

ある日おれを捨てて名古屋に帰った。それきり、お互いにもう会わないつもりでいたんだ。ところが」


と城見はロレックスをひっくり返して、なつかしげに”紀沙・城見”のイニシャルを見た。


松ヶ峰まつがみね氏が亡くなったころかな、ひょんなことからおれたちは再会した。おれはやり直すつもりでいたし、紀沙もそうだったかもしれない。

しかし彼女は土壇場どたんばでまた結婚を取りやめた。君を身ごもっていたのに」

「なぜ、ですか」


環の声はさっきからふるえが止まらない。自分が城見に向かって何を言っているのか、よくわからないほどだ。


「おばはあなたを愛していました。再婚できない理由はなかったはずです」

さとしくんがいたから」


城見は目線をロレックスの裏面に固定したまま、つぶやいた。

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