第百五十三話 あれは、ああいう女だったから
コルヌイエホテルの日本庭園を流れおちる大滝の水音のあいまに、城見の低い声が聞こえてくる。
深い深い
「
聡くんが大人になって国会議員として席を得るまでは、松ヶ峰の家から出られないと言っていた。あれは、ああいう女だったから」
あれは、ああいう女だったから。
この一言に、城見の愛情のすべてがつまっているように環には聞こえた。
城見はゆっくりと、同じペースで話し続けた。
「だが、紀沙には君を手放すつもりはなかった。どうあっても君を手元に置きたかった。だから
「私は、生後半年で松ヶ峰の家にまいりました」
まだ混乱したままの環が言う。
「おばは、軽井沢での静養をもっと早く切り上げたはずです。では、生まれたばかりの赤ん坊を誰が世話をしたんですか。誰も知らない”
うん、といってから城見はかすかに
「そうだ。これは君の知らないことにしておいてほしいんだが、”藤島夫妻”というのは
北方は、昔から紀沙のためなら何でもやった。生まれたばかりの君の戸籍を作るために当時つき合っていた男と一時的に籍を入れ、自分の名前を法的に変えるなんてことまで平気でやった。
”
北方は、君がきちんと”
ああいうときの北方は、とにかく
環はもう、声を失っていた。自分のために組み立てられた詳細なたくらみが、夕暮の庭園の中で次々とあらわになっていく。
森のようなコルヌイエホテルの日本庭園の
環にはなにも言わず、だまって愛してくれた母親の顔が。
「俺は、紀沙が欲しかった」
滝の音にまぎれて、ふたたび城見の声が聞こえてくる。
「紀沙も、生まれたばかりの君も欲しかった。君が生まれてしばらくしたころからおれの仕事も安定してきた。だから紀沙に何度も言ったんだ。君と聡くんをつれて香港にきたらいいって」
しかしそれは、できない相談だった。
名古屋で四代続く政治家の家系・松ヶ峰本家の
同時に、幼い聡ひとりを捨てて、環とともに香港へ行くこともできないことだった。
なぜなら、紀沙は”松ヶ峰紀沙”だったから。
地方財閥の家名と財産と責任を負っている人間だったから。
松ヶ峰の名前と財産をそっくり聡に譲り渡すまでは、紀沙はただの紀沙になれなかったのだ。
だから。
複雑な手順を踏んで、環を私生児ではなく”藤島家”の養女とし、あらためて手元に引き取ることにした。
血のつながらぬ一人息子とともに、血はつながっているが法的にはつながらない娘を手元で育てた。
そしてその秘密を守りきるために、娘の父親である城見龍里とも会わない道を選んだのだ。
「おばは、毎月あなたに何を送っていたのですか」
環は答えが分かっているような気がしながらも、尋ねてみた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます