第六十三話 この切なさは、どこへ行く

松ヶ峰聡まつがみね さとしのスイートルームの斜め向かいにある部屋から、女性のおだやかな声が聞こえた。


「この部屋がいいんです。このまま、朝までいさせてください」


女性の声がきっぱりと言いきると、聡の目の前で有能なホテルマン・井上いのうえのかっちりとした立ち姿が、はじめてらいだ。

つねに余裕を持ち、コルヌイエホテル内で起きるどんなトラブルにも顔色ひとつ変えたことのない男が。

名古屋から定期的に上京しては当たり前のように無理難題むりなんだいを吹っかけた聡の母、松ヶ峰紀沙まつがみね きさのようなゲストにも、子供をあやすような微笑でこたえてくれた男が。

たった一人の女性の前で、揺らいでいた。


井上がだまって、百八十センチ以上ある細身ほそみの身体を仕立物したてものらしいダークスーツのなかでひそやかに動かすのが聡に見えた。

上質のサマーウールの中で井上の肩がすううっと広がって行くのが、三メートル離れたところにいる聡にもひしひしと感じられる。

男の身体にひそみかくれるバネのようなものがダークスーツの中でたわむ。

まるで獲物に襲いかかる直前のけだもののように。


井上が女性に向かって口を開いた。


「きみにとっては、ここが天国ということか? まのが寝込んでいる、ちっぽけなスイートが」


それにこたえる女性の声は、いささかトゲをびて聡に聞こえた。


「まのが心配なんです。あたしは彼女の親友ですもの、当たり前でしょう?」

「“親友”ね」


ぽつん、と井上が言う。

聡には、井上の着ているネイビーブルーのスーツが暗い照明のもとで深海のように沈んで見えた。それを着ている井上は、まるで深海にすむ獰猛どうもうな魚のようだ。

ホテルマンとして磨き上げられた美貌の男は、スーツのポケットに手を突っ込み、すこし困ったように笑った。


いや、困っている顔ではない、と聡は思った。

あれは、せつない恋をしている男の顔だ。

そしてこの切なさは、どこへ行くのだ? と聡は思った。

井上はしばらく黙り込み、やがて軽くダークスーツの肩をすくめた。スーツからあやうく飛び出すところだったバネも獰猛性どうもうせいも静かに引き下げられる。たくみな、ホテルマンの手で。


「じゃあこのまま、この部屋でいいんだね?」

「もちろんです。あの、キヨさん」

「うん?」

「まのの看病に、よんでいただいてありがとうございました」


女性が丁寧に礼を言うと、井上は一瞬だけ言葉につまったようだった。しかしすぐにいつもの滑舌かつぜつの良さを取り戻して、きびきびと答えた。


れいを言われるほどのことはありません。きみは、ぜったいにおれのところには来てくれない。だから、呼んだまでです」

「まののためでしたら、いつでもまいります」

「友情のため?」


井上の言葉を最後に、女性も井上も口をつぐんだ。

次に聡に聞こえたのは女性の声だった。

おだやかだが自分の意志をはっきりと持ち、欲しいもののために戦うことを知っている大人の女の声が、深夜のホテルの廊下にくっきりと響いた。


「友情じゃありません。あなたは、ご存知ぞんじでしょう」

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