第六十四話 ささやくような、甘い呼吸

聡が見るうちに美貌のホテルマン・井上は切れ長の目を軽く伏せ、自分の革靴をつま先を眺めた。

まるで繊細なメダリオンで飾られた自分の革靴と、深紅のコルヌイエホテル廊下のじゅうたんを子細に観察すれば、行き止まりの道の出口が見つかるかのように。

やがて、井上の口が開く。


「知っているよ、きみのはね――ところで、さえちゃん」


井上はそう言うと、自分は廊下に立ったまま手だけをホテルルームのほうへ伸ばした。骨の長い指がしなやかに部屋の中に入っていく。


「これ、ネックレスの金具が髪に引っかかっているようだ」

「まあ……このネックレス、金具がゆるいんです」

「はずしてあげるよ。もう一歩だけ、廊下に出てきてくれるかな。それからむこうを向いて」


井上の言葉に、女性がすなおに一歩だけスイートから廊下へ出てきた。向かい側のスイートルームのドアの陰で身をひそめている聡には、井上に向かって背中を向けた女性の後ろすがただけが見えた。

女性の姿すがたかたちはわかるものの、顔まではわからない。

ただ若木わかぎのような姿勢の良さから、聡には、清廉せいれんな表情を持つ女性であるような気がした。


しかし、聡はふと目をそばめて女性の首筋くびすじを見た。

わずか三メートルをへだてたところにいる聡からは、女性のなめらかな首筋と、そこで輝くプラチナのネックレスがよく見えた。

よく見えるが、ネックレスには一筋の髪もからまってはいない。


ただ白銀のネックレスが廊下の明かりを浴びて、静かに肩に乗っているだけだ。つややかな、なめらかな大人の女の肩に。


すっと、井上の骨の長い指が女性の肩をすべった。

聡の視界のはしで、女性がわずかに身体を震わせたのがうつる。井上はそのまま長い指をなにも引っかかっていないプラチナのネックレスにかけ、軽く持ち上げた。

同時にあいている左手ですばやく、女性のアップにまとめられたシニヨンから一筋ひとすじの黒髪だけを引き抜いて手元に引き寄せた。


ゆっくりと、井上の長身が女性に向かって傾いていく。

深夜のホテルの廊下で、誰にも見られていないと思っている井上は静かに手の中の女の髪にキスをした。

ほんの数本の黒髪に、そっと唇を髪に乗せるだけのキス。

井上は左手にからめた髪にくちをつけたまま、かすかに息をはいた。

まるで、愛しい人をベッドに誘う時のように。

ささやくような、甘い呼吸だった。

女性が低くおさえた声でつぶやく。


「髪、はずれましたか」

「……もう少し」


井上は髪に口を寄せたまま、そう答えた。


「もう少し、だけ」


女性は軽くうつむいて、井上がネックレスを軽く揺らすのにじっと耐えているようだった。

何にえているのだろうか、と廊下をのぞき込みながら聡は思った。

言うことを聞かないネックレスの金具に腹を立てているのか。

それとも井上の愛撫のごとくやさしい声に崩れ落ちぬよう、耐えているのか。


崩れてしまったほうが楽だろうな、と聡は廊下に立つ女性と井上の姿からどうしても目をはずせず、食い入るように見つめながら思った。

崩れてしまったほうが、タガをはずしてしまったほうがずっと楽になるはずだ。井上も、黙って後ろを向いている女性も。

たぶん、今ふたりを盗み見ている聡も。


それが、分かっていてもどうにもならない。

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