第六十五話 この世にない花
だが、こんながまんがいつまで続くのか。
おれには、とてもこれほどの恋はできない、と聡は思った。
この人はいったいどれだけの時間、この恋をこらえてきたんだろう。
そしてこの先、どこへ行くつもりなのだろう。
聡が苦しく見るうち、井上のプラチナのネックレスに掛けた指に力が入った。
今度は明確に、女性のネックレスを自分のほうへ引き寄せる。
女性の
そして一瞬だけためらってから、女性は初夏の夜風のようにゆるやかに井上に向かって倒れかけた。
倒れかけたその先に、井上の広い肩がある。
井上はプラチナのネックレスから
そして女性の長身は井上に向かってまっすぐに向かってゆく。そこが約束された場所であるかのように。
しかしそのとき、スイートルームの奥からかすかな音がした。
音がした、と聡が思ったときには、かつんっと硬い音が女性の足元から
高いヒールが、鋭角でコルヌイエホテルの廊下をおおうじゅうたんに突き刺さり、女性の身体の揺らぎを止めた。
井上のふわりと広げた両手が、イカロスの翼のごとく夜の中にほどけてしまう。
「まのが」
と、井上に背中を見せたままの女性は、静かな声で言った。
「まのが起きたようです。見てまいります」
そう言うと、女性は振り返って井上を見た。廊下に一歩出て小さな明かりを浴びた女性の顔が、初めて聡の眼にうつった。
清らかな頬骨と、その下にできる柔らかい影の持ち主だった。
男が、その頬骨の上で指をすべらせたいと思う女。
いとおしむようなセックスの後、抱きしめてそのまま眠らせてやりたいと思うような女が、井上の端正な美貌を見上げていた。
ゆっくりと、女性の手が井上に伸びる。
春先の
この先は、行けないと言うように。
「おやすみなさい、キヨさん。あなたも、あまり無理をなさらないで」
にこりとほほ笑むと、女性は静かに指を引き、そっとスイートのドアを閉めた。
井上は、しばらくじっと閉じられたドアの前でたたずんでいた。
やがて左手でスイートのドアにふれると、
何かを――と聡は思った。
何かを我慢している男は、どうしてこんなに美しいのだろう。
その美しさは、井上がこの恋を死ぬまで隠しきるつもりでいるからにじみ出るものだ。
では必死で
「おれなんて、遠く
ひそかに聡がそうつぶやいたとき、井上はついにこらえかねたかのようにスイートのドアに
そこに恋しい人の唇があるかのように。
この世にない花に、そっと
ダークスーツを着た機能的なホテルマンは、ホテルマンとしてのすべての身動きを忘れて、目を閉じたままつぶやいた。
「――おやすみ、さえ」
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