第六十二話 理知と論理の、やり取り

松ヶ峰聡まつがみね さとしは、老舗コルヌイエホテルのスイートルームの明かりもつけずに、ごく細く開けたドアの内側でじっとしていた。

廊下に立つホテルスタッフの井上いのうえが、向かい側の部屋の中に押さえた声で話しかけるのが聞こえる。


「きみも忙しいのに、“まの”の風邪ごときで呼びつけてしまってもうしわけなかったね、さえちゃん」


小さな声ではあるが井上はホテルマンらしく滑舌かつぜつがいいので、廊下をはさんだ部屋にいる聡にも言葉がよく聞こえた。

それにしても“まの”とは誰だろう、と聡は暗闇の中で思った。風邪で寝ているというのなら子どもだろうか?


そこまで考えて聡は、自分が井上について既婚者なのか子供がいるのかすら知らなかったことに気がついた。聡と井上は、この十五年間ずっと年に数回のペースで顔を合わせていたにもかかわらず、だ。

井上は三十代だし、人目を引かずにいられないほどきれいな男だし、仕事もできる。結婚していてもおかしくはない。

そういえば、井上はこのコルヌイエホテルを所有するオーナー社長の息子だと聞いたことはあるのだが……。

どの情報も、断片的だ。


ホテルマンと客の関係など、しょせんこの程度なのだ、と聡は考えた。それが当たり前だが、ここへきて聡はがぜん井上という男に興味がわいてきた。

聡がじっと暗いスイートの中で聞き耳を立てていると、今度はやや低い女性の声が聞こえてきた。


「“風邪ごとき”だなんて言ってはいけませんわ。まのは呼吸器が弱いんですから大事だいじらないと……。あの、あたしは今夜このまま、こちらのお部屋に泊まってもいいでしょうか」


女性の声は柔らかく理知的で、聡は別の意味で興味をそそられた。思わずドアからわずかに首を出して、廊下の様子をのぞきこむ。

聡の位置からは女性の姿は良く見えなかった。深夜のホテル廊下に立つ井上の大きな背中が、女性の姿の大部分をかくしてしまっているからだ。


ただ井上が女性に向かって柔らかく首をかしげている様子から見て、かなり背の高い人だと聡にも推測できた。

声の使い方、しゃべり方、言葉の選び方からみて、若い女ではない。

三十代のなかばになる井上と、それほど年齢は変わらない気がする。

この人の姿が見たい、と聡は危険をおかしてもう少しだけスイートルームの扉を開き、顔をのぞかせた。


我ながら、やっていることが情けない。夜の高級ホテルで、廊下の立ち話を盗み聞きするなんて。

そう思いながらも聡はなぜか、自分のスイートの扉を閉めてしまうことができなかった。

理知的な声の女性と話している井上の様子が、聡のなかの“何か”を喚起かんきする。

それはわずかに鼻につくような、開ききった花の甘すぎる香りにも似ていた。

井上のテノールの声が続けて


「この部屋に泊まる? まののスイートはシングルベッド二つのツイン仕様だ。狭くて居心地が悪いだろうから、隣の部屋を手配するよ。今夜はちょうど右隣があいているはずだから」


井上の冷静な声がする。

季節はもう初夏だと言うのにひんやりとした声だった。

聡は再び首をひねる。

いったい、どこがおかしく感じるのだろう。


女性の声は理知的で、それにこたえる井上の声は論理的だ。

理知と論理がしあっているのだから、無数の人がぶつからずにきすぎるスクランブル交差点のように、話はすんなりと着地するはずなのに。

このわずかな会話の中ですら、聡の目の前に立つふたりは着地点が見いだせないようだ。


そして井上にも女性にも、お互いに一歩も引く気がないらしい。

ひりっとする空気が、静かな夜のホテル廊下にわき上がった。

やがて、女性が最終通告を突きつけるようにきっぱりとそう言った。


「いいんです。、いいんです」

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