第六十一話 “機能性”が、深夜のホテルルームから出てくる

松ヶ峰聡まつがみね さとしは手にしていた一泊用バッグを乱暴にジュニアスイートの部屋に放り込み、部屋のドアを数センチだけ開いて自分はドアの脇に隠れた。

そっと、コルヌイエホテルの廊下に立つ男を部屋の中から盗み見る。


毛足の長い深紅のじゅうたんを踏んで出てきた男は、百八十センチを超える身体に品の良いネイビーブルーのスーツを来て、まるで役者のように美しかった。

聡はほんの数秒じっと男を眺めていたが、やがて確信をもってつぶやいた。


井上いのうえさんだ。しかしなんだってこんな時間に、客室から……?」


この深夜に老舗高級ホテルの静かな廊下にひとり立っているのは、コルヌイエのレセプションカウンターに勤める井上にまちがいない。

井上はコルヌイエホテルの中でも古参スタッフの一人だ。

聡は十二才で初めて母親の松ヶ峰紀沙まつがみね きさに連れられてコルヌイエホテルに泊まった時から、この端正な男を知っている。もう十五年前のことだ。


そのころから、井上はきれいな男だった。

当時まだ二十代前半の新人ホテルマンだった井上は、レセプションカウンターではなくゲストの荷物を運ぶベルマンとして働いていた。

しかしオリーブグリーンの制服をスッキリと着こなし、にこやかに客の荷物を運ぶ井上は他のベルマンとは明らかに違って見えた。

まるで井上の頭上だけに特別な光が当たっているかのごとく、つねに輝いて見えたのだ。


そして井上は、美しいだけではなくベルマン時代から驚くほど有能で機能的な男だった。

聡の母親である松ヶ峰紀沙まつがみね きさは東京駅から四谷のコルヌイエホテルにやって来るまでそわそわして、この男がメインロビーにいるのを見た瞬間に無条件に機嫌が良くなったものだ。


『ああ、井上さんがいるわ。じゃあもう安心ね』


井上がレセプションスタッフになってからは、東京滞在中の松ヶ峰家の生活は、ほぼすべてこの男の手腕にゆだねられていたと言っても過言ではない。

井上は定期的に上京してくる地方財閥一家のリクエストに対し、丁寧かつ機敏な動きで応え、快適なホテルライフを提供していた。

だから今、聡が井上を見て少しほっとした気持ちになったのは仕方がない事なのだ。

井上さんがいれば、もう安心――。


聡は細めにあけたホテルルームのドアから、非の打ちどころのないほどバランスの取れた井上の姿をあらためてじっくりと眺めた。ほの暗い廊下の照明のもとで、ダークスーツを着た井上の長身が浮かんでいる。

三十代の半ばになった井上は、ますます有能、ますます秀麗である。


きっちりと撫でつけた黒い髪や形の良いひたい、なだらかな鼻梁びりょうのような井上の美貌へ絶妙な陰影いんえいを与えていた。

やや甘く見える井上の顔立ちを引き締めているのは、鼻の上に載っているシルバーフレームの眼鏡だ。そしてその奥には、切れ長の目がいつもひんやりと光っている。

井上の切れ長の目は、コルヌイエホテルで起きる大小の事物をなにひとつのがさず見ているように鋭い。

つまり二十四時間、一瞬も休まずに稼働する老舗ホテルと同じく、井上とは機能性のかたまりのような男なのだった。


その“機能性”が、深夜のホテルルームから出てくる。

聡ならずとも、が気になるところだ。

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