第六十話 松ヶ峰聡は、楠音也に飢えている
「なんだ、
「あ、いえ。ではエレベーターまでお送りしましょう」
と音也は周囲を気にしているのか、しつこく丁寧な口調でしゃべり続ける。
聡はもうめんどうくさくなって、一泊用バッグをぶら下げてホテルロビーを歩き始めた。
「なんだよ”お送りする”って。どうせお前は隣の部屋にいるんだろ」
すると音也は慣れた様子でエレベーターのボタンを押してから、ちらりと聡を見た。
音也のいやみなほどに整った顔が、笑っている。
―――笑っている?
聡はいぶかしげに、親友のきらめくような美貌を見た。
「音也?」
「わたくしは、別フロアです」
「はあ?なんだって?」
「先生には、十二階のジュニアスイートのお部屋をお取りしておきました。わたくしは別フロアにおりますので、ご用の
聡がよほどおかしな顔をしたのだろう、音也は華麗な身体をすっと近寄せてささやいた。
「おまえはスイート、おれは標準客室。これも経費削減だ」
「経費ぃ?そんなこと、これまで考えたこともなかったじゃないか」
「これからは、シビアになってくるからな。カネの問題は選挙前からクリアにしておいたほうがいい」
そう言うと、音也はトンと聡の肩をエレベーターに向かって押した。音也にふれられたところから、聡の全身に熱が走る。
飢えているから。
聡はわずかに顔を赤くしながら、音也に向かって小声でどなった。
「お前一体なにをいって…くそ、俺を押すんじゃねえよ、音也!」
聡がそう言うのと、音也に突きこまれたエレベーターの扉が閉じ始めるのがほぼ同時だった。
聡はエレベーターの中で身体をひねって外を見た。閉まりかける扉の前で、音也がひとりで立っている。
「明日の朝、七時にお電話いたします。お休みなさいませ」
そう言って、深夜ゼロ時だというのに楠音也は何かから解放されるかのようにすがすがしく微笑んだ。
しゅっと軽い音を立ててエレベーターの扉がしまりきる。
聡は呆然として、音也がフロアボタンを押していったままの十二階まで運ばれた。
「なんだ、ありゃ。なんだって別フロアに…経費削減?そんなこと、一言も聞いていねえぞ」
聡は首をひねりながら十二階で降りた。このフロアはジュニアスイートの部屋がズラリと並んでいるようで、一部屋ずつの間隔が広い。
聡は音也から持たされたカードキーを眺めては部屋番号をつぶやいて歩き始めた。
「1210…1210…おっ、ここだな」
聡がカードキーをドアのスロットに差し込み、部屋に入ってドアを閉じようとする。その時、ついさっき聡が行き過ぎたばかりの斜め向かいの部屋から物音がした。
廊下をへだてて三メートルほど離れた向かいのホテルルームのドアが開き、長身の男が優雅に出てくるのが見えた。
聡が思わずつぶやく。
「あれ…
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