第五十九話 おまえを勝たせなきゃ

さとしは、かすかな新幹線の振動に乗せるように音也おとやへ向かって言った。


「お前…俺とたまちゃんと結婚させたいのは、ほんとうに今回の選挙のためだけか?」


聡の言葉を聞いて、音也の目元がゆるんだ。そのつやのある美しさに、聡はもう、今度こそわが身をそっくりと山奥の深淵しんえんに投げ込みたくなる。

どうなってもいい。

選挙も家族もどうだっていい。

ただひたすらに、音也が欲しい。


ふわっと、音也の顔が近づいてきた。音也のつけている花のような香りのデューンが、聡ののどをふさいでいく。

聡が思わず叫ぼうとしたとき、音也の口が、聡の耳にふれた。

甘くやさしく聡の欲情をそそり立てるように、楠音也くすのき おとやは聡の耳をかんだ。


「…おと」


聡が思わず声を漏らした時、これまでに聞いたこともないような冷たい声が耳元で聞こえた。


「決まってるだろ、選挙のためだ。おまえを勝たせなきゃ、おれには一円の金も入ってこないんだよ」


すうっと聡の身体から音也の体温が離れた。

聡が目をやると、十年来の親友はとっくに有能な政治秘書の顔になり、なにごともなかったような手つきで膝の上のノートパソコンを開いていた。

それから、聡のほうを見もしないで言った。


「新横浜につくまで、邪魔するなよ。おれにはやっておかなくちゃいけない仕事があるんですよ、“ボス”」


がたんっと音を立てて、聡は新幹線のシートのリクライニングを倒した。腕を組み、音也から顔をそむける。

聡の目の前には、まっくらな新幹線の窓だけが見えた。

いや、みっともない顔をした聡の向うに、氷をけずり上げたような流麗な横顔をうつむけて仕事にはげむ、音也が夜の窓に映っていた。


この世のものとは思えないほどに、美しい男の姿。

松ヶ峰聡が、絶望的な恋をしている男の姿だ。

夜の新幹線は、一秒の遅延もなくひたすらに東京へ向かっている。



★★★

聡と音也が、東京都内の四谷よつやにあるコルヌイエホテルに着いたのは、深夜十二時ごろだった。聡はむっつりしながら、一泊用バッグを手にして華麗なメインロビーに入っていった。

コルヌイエホテルは敷地内に三つの宿泊棟を持ち、全千五百室を要する都内有数の巨大ホテルだ。

戦前の宮家みやけの敷地に建てられた宿泊棟はどれも機能的かつ優雅で、美しいホテルを偏愛する松ヶ峰紀沙まつがみね きさ定宿じょうやどでもあった。


聡は、東京でホテルと言えばコルヌイエしか知らない。

十八の時、母に内緒で付き合っていた女の子とこっそり東京へきて泊ったのも、コルヌイエホテルだった。

そのときはあやうく母に知れるところだったのを、腕利うでききのレセプションスタッフによって救われたのだが―――

聡はふと深夜で人の少ないレセプションカウンターを見渡して、つぶやいた。


「今日は井上いのうえさんはいねえのかな、あのひとはいつだって勤務中なんだが」


そこへ音也が戻ってきた。

音也は百八十四センチの長身に白いシャツとダークネイビーの麻ジャケットをあわせ、深夜とは思えないほどに清潔で、ととのって見えた。

その姿が、聡には腹立たしい。

音也は聡に向かって部屋のキーを差し出した。プラスチックのカードキーだ。


「十二階のお部屋です。荷物をお運びします」


音也はまわりに人がいるときに使う、いやみなほどに丁寧な声でそう言った。

ちっ、と聡が舌打ちした。


「自分で持つ。お前も荷物を持って来いよ」


すると、そこでわずかに音也が答えをためらった。

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