第五十八話目 防波堤

楠音也くすのき おとやの瞳は、静かでそこがないほどに深く、ひとが命を投げうってでも沈み込んでみたいと思う美しさを持っている。

松ヶ峰聡まつがみね さとしは音也の眼の奥に引き込まれそうになりながら、岩壁がんぺきに手がかりを打つように答えた。


「俺は、たまちゃんの家族だ。だから、おふくろの遺した財団法人の理事になってもおかしくない。御稲みしね先生はおふくろと姉妹同然だったし、弁護士の三木みき先生たちにはおふくろが金を払って理事になるよう、頼んだんだろう。

だが、お前は?お前は一体、なぜ理事になっていたんだ」

「頼まれたんだ、紀沙きささんから」


音也は簡単に答えた。


「紀沙さんはたまきちゃんのことを心配して、彼女に『金を残したい』と言っていた。ただ遺贈するだけじゃなく、あの子の生活がこのさきの何十年にもわたって安泰である形で渡したいと。

それから、まちがいなく彼女が金を受け取るように手配したいと言っていたよ」


ふう、と聡はため息をついた。


「どんなことでも先手を打っておく。おふくろらしい、やりくちだな」

「紀沙さんは、あの子を愛していらした」


ふっと音也は声のトーンを落として、ささやくような音量でつぶやいた。


「この世の、どんなものより愛していらした。だけど紀沙さんが亡くなったら、松ヶ峰の家は環ちゃんを守ってくれない。だから金を投資信託の形で残し、おまえに彼女をたくすつもりだったんだ」

「たまちゃんは俺の家族だ。俺がまちがいなく守るよ」


新幹線の振動に乗せて聡が軽くそう言うと、ゆら、と音也の美貌が聡に近づいた。いよいよ声を落として、誰にも聞かれないように聡にささやく。

まるで魔術のように。


「環ちゃんは、血縁的にも法律的にもおまえの家族じゃない。あの子を守るには、結婚するのが一番いい方法だ。そう思わないか聡?」

「思わねえな」

「―――さとし」


と、音也がそっと聡の眼をのぞき込んできた。その視線には、もうどんなたくらみも嘘もないように見える。


「いずれおまえは、政治家として妻を持たなきゃいけない。後援会から妙な女を押し付けられる前に、環ちゃんと結婚してくれ。

あの子になら、耐えられる。お前の隣にいる女があの子なら、おれもやっていけるんだ」

「…やっていけるってどういう意味だ、音也」

「あの日、あの部屋の前で、おれは紀沙さんと約束した。

松ヶ峰聡を、一語のスキャンダルもない政治家にしてみせるって。必ず日の当たる道を歩かせて、公明正大な男にしてみせますって。やくそく、したんだよ」


そう、歌うように音也は言った。二重まぶたの眼があやしく光り、音也はみずからの肉に鋭い刃物を食いこませてゆく人のように、うわうわした声でつぶやいた。


「環ちゃんは防波堤なんだ。おまえが泥の海に呑まれないようにするための、防波堤だ。あの子以外の女を隣に立たせたら、おれはそいつはぶち殺すぜ、聡」


ごくっと、聡ののどぼとけが鳴った。冷たい汗が全身から噴き出し、聡の皮膚を濡らしてゆく。

ここにいるのは、いったい誰だ?

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