第五十七話 「あの子なら、良いんだ」

東京へ向かってひた走る最終便の新幹線のなか、ざくんっと楠音也くすのき おとやは口を開いた。


「あの家に、たまきちゃんがひとりで残っているからだ」

「…どういう、意味だ」

今野こんのと環ちゃんを、これ以上ちかづけたくない」


それだけ言うと、音也は黙ってしまった。ふたりのあいだで会話が途切とぎれると、新幹線がたてるかすかな音しか聞こえなくなる。

音也はしばらくのあいだ、指の長い両手を閉じたノートパソコンの上に置いていた。やがて何か決心したかのようにすこしげたように見える鼻をこすってから、さとしに向きなおった。


「今回のことは、おれの失策だった。まさか環ちゃんがけがをするとは思っていなかったよ。くそ、明日はあの場におまえと環ちゃんがそろっていることが大事だったのに」

「俺とたまちゃんがそろっていること?なあ音也、さっきからお前の言っている意味が、さっぱりわからない」


さとし、と音也が言った。


「俺はな、今回の資金パーティでおまえと環ちゃんをセットで売り込むつもりだったんだ。地方の名門御曹司めいもんおんぞうしと幼なじみのカップル。文句のつけようのない組み合わせだ」

「てめえ…まだそんなたわごとを」


ぐっと聡が膝の上でこぶしに力を入れたとき、音也が顔を上げてまっすぐに聡を見た。その唇からは、次々とつやめいたバリトンがこぼれてくる。


「あの子なら、良いんだ」


音也の声は人の心に深くしみる声だ。

染み入って、気持ちを揺さぶらずにいられない声。コップのふちにあやうく盛り上がっている水を、ひときであふれさせる声だ。

聡をくるわす声。

だが今は、きわけのない子供に言い聞かせるようなおだやかすぎる声だ。


「聡、政治家には地元に”妻”がる。地方在住の国会議員は、いったん国会が始まったら東京暮らしだから長いあいだ地元をあけなきゃいけない。おまえが留守にしているあいだに後援会のめんどうをみて、地元でのイベントでお前の名前を売って歩く人が必要なんだ。

政治家の配偶者っていうのは、ただの家族じゃない。おまえを支えて、必要とあらばおまえの代わりに泥をかぶるマネージャー役でもあるんだ。誰にでもつとまるってものじゃない」

「…わかってるよ」

「環ちゃんなら松ヶ峰まつがみね家内いえうちの事情も、後援会のことも何もかものみ込んでる。俺は、亡くなった紀沙きささんがお前のパートナーとして環ちゃんを育てたんじゃないかと言う気がしているんだ」


聡は、親友が亡き母の名前を口に乗せるのをにがい気持ちで聞いた。

つい、聡の口調がとげとげしくなる。


「おふくろが、お前にそんなことまで言ったのかよ?」


いや、とさすがに音也も口をにごした。


「直接、紀沙さんから聞いたわけじゃない」

「だがお前は、俺以上におふくろからあれこれと打ち明けられていたな?あの財団法人のことは何なんだ。お前はおふくろが死ぬ前から、理事に決まっていたそうじゃないか」

「おまえも、メンバーに入っているぜ」


音也は、ちらっと聡を見てからそう答えた。その目つきが聡をいらだたせる。

かすかにあおみがかった、楠音也の眼。その目は話をそらしたい時ほど、ものすさまじいくらいに美しくなる。

他愛たあいもなく人を呑み込むことができる、山奥の沼のようだ。

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