第五十六話 力わざの刃物のような若い獣

さとしは、肩にかつぎあげたたまきを落とさないようにゆっくりと階段を上がっていった。

大正時代に建てられた古い洋館である松ヶ峰邸まつがみねていには、二階に上がるための巨大ならせん階段がある。

ゆるく、らせん状にうねっている階段はただでさえ上がりにくいのに、いま聡の肩の上に乗っかっている藤島環はぽっちゃりめの体型だ。

落としたくない。


ようやく階段を上がりきり、聡は環の部屋の前でそっと妹分いもうとぶんを肩からおろした。

環は部屋の扉の前で、もう一度尋ねた。


「ただ東京へおともするだけなら、できますよ。そうすれば、サト兄さんと音也おとやさんのってことにならないでしょう?」


聡は低く笑った。


「大丈夫だ。俺を甘く見るなよ?もうじき衆議院議員になる男だぜ」


環は疑わしそうに聡を見て、それでも何も言わずに部屋に入って重い扉を閉めた。聡はしばらく扉の前に立ち、ぼんやりと自分のつま先を眺める。


恋をするとは、自分よりも大切なものができてしまうことだ。そして今の聡にとって大切なのは、楠音也くすのき おとやただ一人なのだった。

聡の有能な政治秘書。

最愛の「秘書」だ。



★★★

夜十時十二分、名古屋から東京へむかう最終ののぞみに、松ヶ峰聡まつがみね さとしと音也は乗り込んだ。

乗るとすぐに音也はカバンからノートパソコンを取り出し、仕事を始めた。聡は隣に座る男の気配に全身の毛を逆立さかだてながら、何も言わずに座っている。


東京へ向かう平日最終便だけあって、新幹線の客は少ない。

自由席はガラガラで、この車両には聡たちともう一人ビジネスマンらしき男が座っているだけだ。

すぐ横にいる、音也の匂いが聡にひたひたと近づいてくる。

花のような香りのするデューンだ。

そのにおいが、ふと聡にほんの十分ほどの情景を思い出させた。

聡の選挙スタッフである今野こんのと、音也のだ。


三十分ほど前に、音也と聡は今野に車を運転させて名古屋駅へ来た。

駅の新幹線改札口に一番近いのは、太閤通口たいこうどおりぐちという出口だ。名古屋駅の駅裏にあたり、夜になると人通りが少ない。音也は駅入口の近くに車をとめさせ、今野が荷物を降ろすスキに短く二言・三言だけ話しかけた。

ほんの数秒のことだ。


しかし音也の話を聞いた後、今野の態度が目に見えて変わった。

あのにぎやかな男が一言も言わなくなり、蒼白な顔のままカバンを車から降ろした。聡の眼には、それまで頼りなく見えていた今野の身体が、ぎわり、と二倍にも三倍にもふくらんで見えた瞬間だった。


いつもの今野の陽気でおちゃらけた雰囲気はどこにもなく、そこには刃肉はにくの厚い肉包丁のような、まがまがしささえ感じさせた。

骨もすじも一気に叩き切る、ちからわざの刃物のような若いけだものだ。

今、暗夜を走る新幹線のなかで聡は、さっき見たばかりの今野の変わりように首をひねる。それからちらりと隣に座る端麗な男の顔を見た。

音也が、膝に乗せたノートパソコンから視線もはずさずに言った。


「なんだ。腹でもへったか、聡」

「すかねえよ、来る前に家で食ったじゃねえか。なあ、お前、さっき駅で今野に何をいったんだよ」

「今野に?明日の仕事を伝えたんだ」

「…明日の今野は、まるっと一日休みだろ。あいつは俺の事務所に来てから、ほとんど休んでいないから」


ふう、と音也はため息をついてパソコンのキーボード上で忙しく動かしていた指を止めた。それから聡の顔を見る。

なめらかな額、力のありすぎる目元、薄く形の良い唇。

かつて学生モデルとして知られた楠音也の美貌が、よりいっそう美しく、つやめいて聡の目の前にあった。

聞きわけのない駄犬だけんを見るような目つきで。

音也のバリトンが短く答えた。


「休みだから、家から一歩も出るなと言ったんだ」

「はあ?よけいなお世話だろ。あいつにだって、出かけたいところがある」

「ああ、そうだろうな。俺だって、コンがどこに行こうがかまわない。ならな」

「―――うち?」


聡はきょとんとして音也を見なおした。


「なんで今野が休みの日に、うちにくる?」

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