第3章

1「松ヶ峰聡の消せない、欲情の問題」

第五十五話 今夜、音也とふたりきり

松ヶ峰聡まつがみね さとしは肉厚な百八十四センチの身体で腕を組み、選挙事務所にしている古い洋館の一階で、目の前に座るふたりを見おろしている。

肩を落としてすっかりしょぼくれた様子なのは、聡の選挙事務所のスタッフである今野哲史こんのてつしだ。

その隣には、やや困った様子でうつむいている聡の妹分いもうとぶん藤島環ふじしまたまきがいる。


環の右足の包帯を眺めつつ、聡はためいき混じりで言った。


「それで、環ちゃんは捻挫ねんざだけですんだんだな?」


はい、と環はふっくらした肩をすぼめながら答えた。


「ちゃんと距離をはかってから降りればよかったんですが…ごめんなさい、サト兄さん」

「フェラガモをはいたまま、しいから飛ぶやつがあるかよ、まったく。あれは五メートル近くあるんだぜ」

「すみません」


そう言ってますます環が小さくなると、聡はふうと息を吐き、それから今野を見た。


「お前には言いたいことが山ほどあるが、今はやめておく。もうさんざん音也おとやからしぼられた後みたいだからな」

「…しぼられました」

「当たり前だ。今夜から、たまちゃんは俺たちといっしょに東京へいくはずだったんだ。なぜだか知らないが音也がすんなりと、たまちゃんの同行にOKを出したのにな。これですっかり計画変更だ」


あの、とここで初めて環が顔を上げ、聡に話しかけた。


「私、行けますよ」

「行けるわけがないだろ。今回は横井よこいのオヤジにくっついて、きみも政治パーティに出るはずだったんだ。ヒールで立てなきゃ意味がない。もういい、今回は、君は留守番だ。これにこりて当分おとなしくしていろよ?」


そう言ってから、聡は事務所にしている部屋を歩き回り始めた。


「たまちゃん、俺の荷物はできている?」

「はい。一泊用の準備をしておきました。お部屋にカバンがあります」

「ありがとう。コン、お前はカバンを車に積んでおけ。名古屋駅まで俺と音也を送っていくんだ」


はあ、と言って今野が部屋を出ていく。そのとき、ちらりと環を見た今野の目つきが、聡には気に入らない。

気に入らないが、聡はあと二時間ほどで東京へ出発せねばならない。

聡は今野がいなくなったのを確認してから、環のそばにいった。右足首の白い包帯が痛々しく見える。


「ほんとうに大丈夫か?」


環はもうしわけなさそうに、うなずいた。

「ほんとうにごめんなさい、サト兄さん。あんなに音也さんとふたりでは行きたくないといっていたのに」


聡はちょっと渋い顔をした。それから手を振り


「いいんだ、そっちはたいしたことじゃない。それよりも、今夜ひとりでだいじょうぶか?心配なら名古屋駅へ行く途中で、御稲みしね先生の家におくっていくぜ」


すると環はコロコロと笑った。


「無理です。あのお家は三階にあるんですよ、建物の外にある階段を三階まで上がるのは、ちょっと無理です」

「…そうだな」


と聡も同意した。

それからもういちど環の包帯に包まれた右足首を見て、ぽんと環の頭を叩いた。


「二階の部屋まで連れて行ってやるよ。めしはどうした」

「さっき、音也さんが差し入れをしてくれましたから」

「うん。留守番って言っても、今夜一晩だけだからな、明日の夜には戻るよ」


聡はそういって、環の身体をちいさな子供のようにかかえあげた。それからくくっと笑う。


「今野をかばって、裏庭の椎の木から飛びおりたって?たまちゃんも意外とやるよな」

「だって、今野さんがけがをしたらサト兄さんが困るでしょう」

「君がけがをしたって困るよ。コンも君も、俺にとっちゃ大事なんだ。そういうことは忘れないでくれ」

「サト兄さん」


と、環が聡に米袋こめぶくろのようにかつがれて、松ヶ峰本邸まつがみねほんていの巨大な、らせん階段を上がっていきながらつぶやいた。


「一晩、音也さんと二人きりでいられますか」

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