第二話 ふがいない松ヶ峰家の息子

楠音也くすのきおとやが低いバリトンの声で言った”本郷ほんごう”とは、名東区めいとうくの本郷に住んでいる聡の叔父だ。松ヶ峰聡まつがみねさとしにとっては亡父の末弟にあたる。

ちなみに”本郷”とは、名古屋市内にある地名である。

新興住宅地として人気のエリアだが、同時に昔ながらの地主も多く住んでいる地域でもある。


松ヶ峰家はかつての尾張徳川家につながるという名流で、親族はそれぞれ名古屋市内にちらばって広大な地所を所有している。

さらに全員が「松ヶ峰」であるためいちいち呼び分けるのがめんどうで、基本的に邸のある場所が名前がわりになっている。

だから”本郷”とは、本郷に自邸のある松ヶ峰家の分家ぶんけである。


さらにこの叔父は松ヶ峰家の政治後援会”吉松会きっしょうかい”をまとめている人物であるから、初めての衆議院議員選挙をまぢかにひかえている聡にとっては決して粗略に扱ってはいけない存在でもある。

しかし聡は昔からあの叔父が、けむたくて仕方がない。

その感情が、とげとげしい言葉になって音也に向かう。


「おじさんは誰が相手だって話が長いんだ。おれがいかに松ヶ峰家の総領そうりょうとして不甲斐ふがいないかってことを、延々と言い続けるのが生きがいだからな」


それを聞いて、音也はにやりとした。

音也の長い指が、安っぽい喪服のポケットから煙草とマッチを取り出す。

煙草をくわえて火をつけて、薄い唇で最初の一息を吸いこむまでが流れるようで、まるで年季ねんきの入ったバレエダンサーか、上手な詐欺師さぎしのようだった。

ふと、聡は音也が喪服の内ポケットに戻した煙草のピンク色の箱に目をとめた。


「今日はメンソールか」


音也が笑ってうなずく。この男はもらい煙草でしか吸わないから、煙草は日替わりだ。


「“白壁しらかべ”がくれたんだ。なあ。あのおばさんは紀沙きささんが亡くなったというんで、早々そうそうたまきちゃんをこの家から追い出すつもりだぜ。もう俺にあれこれと言ってきた」


くそ、と聡は小さくののしり声を上げた。


「”白壁”は昔から、たまちゃんがこの家にいるのが気に入らないんだ。松ヶ峰の本邸に一族以外が住むのは問題があると言っている。

どうだっていいじゃないか。こんなにでかい家におれとおふくろだけが住んでいたって仕方がない。

それに、たまちゃんはおふくろの遠縁だしな。もう二十二年もここで一緒に住んでいるのに、いまさら出て行くもクソもない」


ふわ、と聡の髪をどこからか入ってきた風が揺らした。

大正の初めに建てられたという松ヶ峰家の本邸は、いつもどこかから入り込んだ風が吹いている。

ここで育った聡には、それがこころよい。


聡の髪を揺らした夜風は、続いて音也の吐き出した煙草の煙を乗せて、どこかへ消えていった。

音也がのんびりと話す。


「冷たいもんだな。紀沙さんが突然の交通事故で亡くなって、まだ三日もたってないのに。もう誰もそのことは言わないんだ」

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