第三話 そして助けは、どこからも来ない

さとしは静まり返る小さなキッチンに立って、黙って首をさすった。

音也おとやの形の良い唇からこぼれる声は、低いバリトンだ。滑舌かつぜつがいいから、いくら声が低くてもきっかりと聞こえる。


とくに音也に恋する聡の耳には、すべての音が立ち上がっているように聞こえる。

すべての母音と子音がまるでセイレーンのごとくゆるやかに手を振り、聡を誘い込もうとしている。

底のない地獄へ。


音也自身は、聡を誘い込もうなどとみじんも考えていない地獄へ、聡ひとりが勝手に落ちてゆく。

ひんやりした音也の声が小さなキッチンに響いた。


「おまえの親族も後援者も、きれいな顔をして金のことばかりを心配している。みんな腐るほど金を持っているくせに。金持ちってこうゆうものか?」

「俺に聞くなよ」


むっとして聡が言い返す。すると音也は美貌をひらめかせて笑った。


「何だよ。おまえが金持ちの親玉だろう」


音也が眉毛をあげてかすかに笑う。笑うと切れのいい目がさらにつやっぽくなる。まるで浮世絵の美人画だと聡は思う。

しかし物言わぬ浮世絵美人ではない楠音也は、煙草を吸い終えるとキッチンのすみから空き缶を探し出して、あっさりと吸い殻をひねりつぶした。


「そろそろ広間に戻れよ、聡。喪主がいないんじゃカッコがつかないし、後援者の方も大勢きているんだ。議員候補者として、せいぜいカオを売ってくれ」


そういうと、音也はアルミ缶を持ったまま出て行った。

あとには、ピカピカに磨き上げられたキッチンに聡ひとりが残される。

聡、ひとり。


どこかで風が動いて、たった今まで音也が吸っていた女もののメンソールの匂いを聡にまといつかせる。

こおりつくほど冷えた白ワインがほしいと、松ヶ峰聡まつがみねさとしは思った。

母の死、がらんどうの家、古い一族にからむ重圧。そしてこれから始まる、初めての衆議院議員への立候補。

考えただけで、めまいがする。


松ヶ峰家は代々つづく政治家の家柄だ。初代から数えて、聡で四代目になる。

聡の父が早くに亡くなっているので、今回の選挙は松ヶ峰家とその周辺の人々にとっては三十年ぶりの大イベントなのだ。

というか、松ヶ峰の分家ぶんけも後援者もみなみなそろって、ひたすら聡が立候補者として妥当な年齢になるのを待ちかまえていたというのが、正しい。


一族の出馬が三十年ぶりであろうと百年ぶりであろうと、松ヶ峰家の人間が立候補する以上は落選するわけにいかない。まだ選挙まで半年近くもあるというのに、聡はすでに圧迫感のため眠れなくなっている。

しかも、選挙運動でもっとも当てにしていた母親・松ヶ峰紀沙まつがみね きさに死なれた。大打撃だ。


聡は、ピカピカに磨かれたシンクのはしをつかんで蛇口じゃぐちをひねった。イタリア製のシステムキッチンは、通いの家政婦によって毎日、丹念たんねんに磨きあげられて一片のくもりさえない。

うっかり目を開けると、情けない目をした聡がステンレスの表面からみっともなく見返してきた。

助けてくれと、いうように。

そして助けは、どこからも来ない。

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