第四話 松ヶ峰聡の影

春とはいえ、日が落ちると冷える。まして大正時代に立てられたという古い松ヶ峰家まつがみねは、どこか底冷そこびえがした。

さとしは水をとめて、やせこけた犬のようにぶるりと身ぶるいした。タオルをとり、ぞんざいに髪を拭く。


「おかしいだろ、おれ」


思わず漏らしたつぶやきが、ぴかぴかのキッチンに跳ね返って聡の身体を傷つける。

原因は、音也おとやだ。

高校時代からの親友の楠音也くすのき おとやは、東京の大学に進学した。そのまま東京である議員事務所で働いていたところを、聡が頼み込んで帰ってきてもらった。

自分と亡くなった父親の代から続く政治後援会”吉松会きっしょうかい”とのあいだに立つ人間がほしかったからだ。


そして音也は今、松ヶ峰家の広大な本邸ちかくに小さな部屋を借りて住み、事務所準備や後援会とのやりとりに目をみはるような手腕を見せている。古い後援会幹部を上手にあつかい、相手のプライドをくすぐりながら聡に必要な協力と譲歩と手に入れてきた。


仕事ができて頼りになって、しかも華麗な顔かたちの男。これが評判にならないわけがない。

音也は聡の無給事務所スタッフから絶大な信頼を得ているし、同性である男からも嫌われていない。嫌われないように、音也はありとあらゆる部分に細心の注意を払っている。


なぜなら、秘書のマイナスイメージは立候補予定者のイメージに直結するからだ。

自分が松ヶ峰聡の影であることの意味を楠音也くすのきおとやは知り尽くしている。


聡がため息をつきながらタオルで髪をおおったとき、背後から小さな足音が聞こえた。

ためらいがちな、やわらかい声が続く。亡くなった紀沙の遠縁にあたる、家族同然の藤島環ふじしまたまきの声だ。


「サト兄さん。大丈夫ですか?」


聡が思い切ってタオルから顔をあげると、そこには丸い顔のまんなかに平凡な顔のパーツをそろえた妹分いもうとぶんが、ふっくらした身体をきゅうくつそうに黒い喪服に詰め込んで、こちらを見ていた。

亀のように鈍重どんじゅうに見える環は、聡の母・松ヶ峰紀沙まつがみね きさが生後半年で手元に引き取り、むすめ同様に育てた女の子だ。


常識的で頭は良いが二十四才になろうと言うのに色気もなく、選挙ではまったく役に立ちそうもない藤島環も、今後は松ヶ峰聡が責任を負わねばならない人間のひとりである。

聡はどうにかして笑顔を作りながら、環に答えた。


「ああ、俺は大丈夫。たまちゃんこそ、大丈夫か?」

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