第五話 誰も見たことがない、家の鍵

藤島環ふじしまたまきは、おっとりした声で聡に話しかけてきた。


「お疲れが出たんじゃないですか、サト兄さん?喪主だから、もう三日もほとんど寝ていないでしょう」


大丈夫だよ、と聡はもう一度いった。今度は少し声が荒かったらしい。

たちまち環のぽっちゃりした手が、上質だが平凡なデザインの喪服の上をおろおろと動きまわった。

その自信なさげな動きを見ていると、聡は腹だたしく思いつつも、いつものように三歳年下の環を救い出さねばならない気になる。

飼い主を見失った小型犬のような、群れからはぐれた仔象こぞうのような環。

聡にとっては、むしゃくしゃするが放っておけない存在だ。

聡は手にしていたタオルを乱暴に放り出した。


「ごめんな、たまちゃん。本郷ほんごうのおじさんにいろいろ言われたんだろ」

「おじさまは選挙のことを心配してらして…。今は音也おとやさんがうまくお話ししてくださっていますよ」

「うん。選挙のことはぜんぶ、音也にまかせとけばいい。もうそろそろ精進落しょうじんおとしも終わりかな」

「ええ。だから音也さんがサト兄さんを連れてきてほしいって」


きちんとした黒のワンピースを着た環は、二十四才という年よりややけて見えた。おまけに今夜は、ふっくらした環の頬のあたりにさえ疲れが浮いているのが聡にもわかった。

松ヶ峰紀沙まつがみね きさが育てた少女は、声や言葉の選び方、しぐさなどが紀沙によく似ている。聡はふと、死んだ母が声だけ戻ってきた気がした。

情けない一人息子を、どやしつけるためだけに。


聡は小さなキッチンのどこかに母の気配を濃厚に感じつつ、精いっぱい背筋を伸ばした。そして環に向かってむりやり笑う。


「俺は大丈夫。たまちゃんも大変だっただろ。事故の連絡を受けて警察に駆けつけたのも葬儀場の手配も、たまちゃん一人でやったんだから。悪かったな、俺が横井よこい先生について東京に行っていたもんだから」


聡の言葉に、 環はうつむいて泣き始めた。肩のあたりで切りそろえた髪がゆれる。

環は一度泣きはじめたら止まらなくなったようで、そのまま丸い肩を震わせて、声もなく泣き続けた。


おふくろのために無心で泣ける人間が、まだいたんだな。

環が泣いているあいだ、聡はひたすら環のためのハンカチを探してスーツのポケットをあちこちたたき続けていた。

妹分いもうとぶんの涙をぬぐうためのハンカチさえ、松ヶ峰聡は探しきれなかった。



★★★

それから、聡がゆっくり環と会えたのは四日後のことだ。

同じ屋敷やしきうちに住んでいるとはいえ、紀沙の初七日まで松ヶ峰家の本邸に滞在したままの親族もおり、ふだんより人の出入りが多かった。

聡は有能な政治秘書に言われるまま、後援会の幹部についてあいさつ回りをしたり親族に頭を下げて回ったりしている。


音也は聡の母が亡くなったという不幸をくるりと裏返して、絶好の選挙準備期間に変えてみせた。聡は人形のように殊勝しゅしょうな顔つきをして、音也の言うがままに頭を下げ続けるしかない。


あまりにも大勢に会いすぎて聡の頭の中で名前と顔が混乱し始めたころ、環から呼びとめられた。松ヶ峰家の広壮な本邸の真んなかあたり、ちょうど亡くなった紀沙の部屋の前だった。


「サト兄さん、いいですか。おじさまたちが形見わけの準備をなさっているのですけど。ちょっと、気になるものがあって……」

「気になる?」


ええ、と環はうなずいた。ふっくらした環の頬の下で、あごだけがつまんだようにくびれている。


「鍵なんです。誰も見たことがない、いえの鍵が見つかりました」

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