第六話 この鍵は身元不明

藤島環ふじしまたまきが”鍵”と言った時、さとしはぼんやりと広壮な屋敷の中庭を見ていた。


「鍵?」


聡は環の言葉を繰り返した。環は少し考えてから


「鍵をご覧になりますか」


と言って、松ヶ峰まつがみね邸の寄木細工よせぎざいくの廊下にすっと膝をついた。環と聡の目の前には、生前の紀沙きさがずっと使っていた南向きの和室がある。

環はそのままスッと指を伸ばし、


「失礼します」


と言うと、聡の目の前で無人の部屋の障子しょうじをあけた。

亡くなった松ヶ峰 紀沙の部屋は、十五畳ほどの和室に広縁ひろえんがついており、広縁の向うはほぼ全面のガラス窓になっている。部屋の中がくらく感じるのは、木製のベネチアンブラインドがろされているからだ。


ゆっくりと紀沙の部屋に入って行った環が、慣れた様子でブラインドを上げてゆく。聡がまぶしさに目を細めると、エメラルド色の芝がスプリンクラーの水を受けているのが見えた。

鮮やかなグリーンの芝生の向こうにはソメイヨシノが咲き始めている。

もうじき表庭おもてにわのしだれ桜も花をつけるだろう。


松ヶ峰邸のしだれ桜は、紀沙が家じゅうでいちばん気に入っていた木だ。

庭師が手入れしているあいだじゅうつきっきりでうるさく指示を出し、最後には庭師に追い返されるほどに気に入っていた。

そんな紀沙は、今年の花を見ずにいってしまった。

ソメイヨシノの、なにかを噴き出しているような花を見ながら聡は首筋をなでていた。

そこへ、環のぽっちゃりした手が小さな鍵を差し出した。


「これです」


受け取った鍵を聡はひっくり返してみた。正方形の青い革のキーホルダーに付けられている。何の変哲へんてつもない鍵だ。


「うちの鍵じゃないのか。蔵とか裏口とか」


聡の言葉に、環はかぶりを振った。


「屋敷うちの鍵は金庫にまとめてあるんです。それにこの鍵、一軒家いっけんやの鍵みたいなんです。それもどの家かわからなくて」

「一軒家?おまけに、どこの鍵かわからない?」


聡はまじまじと鍵を見た。


「そうすると、この鍵は身元不明ってことか。どこにあったの」


聡が尋ねると環は


「財布の中なんです」


と答えた。聡は話が分からなくて思わず問い返した。


「財布?あれか、おふくろがいつも使っていたエルメスの財布のこと?」


環は首を振り


「いえ、それとはまったくべつの…というか、わたしが初めて見た財布なんです」

「たまちゃんが、見たことがない?」


聡は思わず驚いた声で言った。

もともと几帳面きちょうめんできれい好きだった紀沙は、自分でもこまめに居室の掃除をしていた。

そして手元に引き取った藤島環ふじしまたまきが短大を卒業して紀沙の個人秘書になると、彼女に月に一度の徹底的な掃除を手伝わせるようになった。


それは掃除というより商家しょうか棚卸たなおろしのようで、実際に紀沙は私物の管理のために”物品目録”まで環に作らせていた。


その環がこれまで見たことがないものなど、紀沙の部屋にあるはずがないのだが。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る