第七十六話 骨ばった長い指のほうがつねに理性より数ミリだけ先を行っている

とした楠音也くすのき おとやのバリトンがさとしの全身にまとわりつき、くるみこみ、コルヌイエホテルのベッドの上で甘く締めつけ始める。


「おれは、約束したんだ紀沙きささんと―――あの、静かな何もない部屋の前で―――約束したんだ。

なにがあっても、おまえにだけは手を出さないって。

おれがこの薄汚い一生をかけて、かならず松ヶ峰聡まつがみね さとしを清廉潔白な政治家にしてみせるって」


そう言いながら、音也の手は音也を裏切り、聡の身体は聡を裏切って熱を帯びてゆく。

甘やかな狂騒。

音也の声と言葉は、ひた走る音也の愛撫に追いついてとどめようとするけれども、骨ばった長い指のほうがつねに理性より数ミリだけ先を行っている。

約束も、理性も記憶も、音也を止められない。

それなのにまだ、この男はかつての約束をつぶやいている、と聡は思った。


「破れない―――あの約束だけは、やぶれないんだ。紀沙さんは、おれに生きていく理由を与えてくれた唯一のひとだ。こんなやつでも、生きていてもいいと言ってくれたんだ。

ただひたすらに松ヶ峰聡のために。だから」


音也の指が止まる。

しかし聡がこらえきれずに甘い息を吐くと、音也の指はもう一切いっさい思惑おもわくを断ち切り、ただ指それ自身だけがたくみに動きまわった。

その愛撫に、あらがう気力も理由も見失うべき将来も、聡は見つけられない。

見つけたくもない。


だって、聡は音也が欲しいから。

音也が聡を欲しがる以上に、音也が欲しい。


ゆるやかなふるえが、聡の芯からきざしてくる。

音也の息が、聡の耳のなかに直接はいりこんでくる。自分のなかを犯しているのが息なのか指なのか熱なのか、もう聡には分からない。

どうでもいい、と思った。

どっちでも、同じことだ。


「―――おとっ」


聡が音也のスーツの肩をつかむと、安っぽいスーツの中でしなやかな楠音也の身体が、きわり、と動いた。

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