第七十五話 ナイチンゲールが歌うように、ジャケットとベストをはぎとり

松ヶ峰聡まつがみね さとしは、コルヌイエホテルの適度にスプリングのきいたベッドで親友の低いバリトンの声を耳元で聞きながら、音也おとやの指先の優しさに驚いている。


音也はナイチンゲールが歌うように聡のスーツのジャケットとベストをはぎとり、エルメスの濃紺のネクタイをほどいてゆく。

初めて生まれた卵を大切にするわたどりのように。

かよわくあやうい命を、羽毛のやさしい愛撫の中に隠しこんでしまうかのごとく。

そして静かな音也の声がコルヌイエのスイートの中で続いていった。


西海せいかい高校に入ってすぐ、おれは紀沙きささんから松ヶ峰の家に呼ばれた。おまえの仲間の中で、おれだけが呼ばれたんだ。

ピンと来たぜ、お前と一緒にいるのはやめろと言われるってな。

あたりまえだ、おれは松ヶ峰の御曹司おんぞうしとつるむ資格のある男じゃない。しょせん、ただの男娼だ」


自分のことをそんなふうに呼ぶなよ、と聡は言いたいが、もう言葉すら出てこない。

ただ波のように動くゆるやかな音也の指先に、何もかもをゆだねてしまった。

音也のバリトンは聡の耳から入り込み、指よりもなによりも先に身体の内部をおかしてゆく。

甘く、深く、濃く。

そしてその声は、容易ならぬことをゆるやかに語っていた。


「あの日は、ちょうど今日みたいによく晴れた初夏の午後で―――松ヶ峰家の庭には、白いかすみみたいな花をつけた木があった。

おれは紀沙さんについて広い庭を歩いて、ちょうど白いかすみの木のしたで、言われたんだ」


そこで音也は手をとめ、同性の親友にワイシャツの第三ボタンまでひらかれて呆然としたままの聡に笑いかけた。


「あのとき、紀沙さんに言われたことをそのまま言うぜ。

『あの子を助けてちょうだい。いつか必ず聡には友人が必要になる。聡を支えて守って、助けてくれる人間が必要になる。あなたが、それになるのよ』ってね」


ひそ、と音也は形のいい頭を聡ののどもとに近づけた。

聡の鎖骨に音也の唇が乗る。

聡は、自分がこの世で最も大切な鎖骨の持ち主になったと思った。

ちょうど、ゆうべこのスイートの外の廊下で、美貌のホテルマン・井上がしずかに手に巻き取った清廉な女性の黒髪のように。

ひとりの男にとって、この世の何よりも大切なものになる重みを感じた。


音也の呼吸が聡の鎖骨のくぼみに積み重なり、甘い重みが聡の体温に溶ける。

溶けてしまった恋情は聡の体温で揮発きはつし、音也の深いバリトンと混ざり合ってゆく。


「あのひとは、こうも言ったよ。

『私は、私の一番きれいな夢を聡に預けているのよ』ってな。だからおれもこう言ったんだ。

『おれも、おれのなかのたった一つのきれいなものを、聡にかけているんです』と」

「きれいなもの?」


聡がそう繰り返すと、音也は丹念なキスをかさねていた鎖骨から顔を上げて笑った。

網膜よりも肌にしみとおるような笑顔。

切ない恋を押し殺し続けてきた男の笑った顔だ。


「さとし。おまえは、おれに許されたたった一つのきれいな夢だ。だからこの先には、いけない」


ふわっと、聡の上から音也の体温と体重が失せた。

かわりに、ゆっくりと骨の長い指が聡の胸をなぞる。指はシャツの隙間から入り込み、鎖骨の下を撫で、そのまますべって下りてゆく。

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