第七十四話 新月がかすかに夜空を照らす

コルヌイエホテルのスイートに、楠音也くすのき おとやのバリトンの声が柔らかく響いた。その音はさとしの耳になだらかに入ってい来るが、聡の脳は内容を理解していない。


こいつは、十五やそこらで生きていくために身体を売っていた。

それを知りもしないで、俺はのんきな顔でこいつとつるんでいた。


責められるべきは、音也ではなく聡ではないのか?

名古屋という豊穣な地方で、王侯貴族のように金のまゆにつつまれ、ぬくぬくと生きてきた松ヶ峰家まつがみねけ御曹司おんぞうし

それが松ヶ峰聡まつがみね さとしだ。

聡がしだいにうつむくなか、音也は淡々と話しはじめた。


「おまえのお母さん・紀沙きささんが、おれに奨学金の代わりの金をくれたんだ。いや、金額で言えば奨学金以上にくれたよ。そのおかげでおれは無事に西海せいかい高校を卒業できたし、東京の大学にも行けた」

「大学?まさかその金も、おふくろが」

「用意してもらった。まあ、一種の”取引”だったからな」

「じじい理事の代わりに、お前は俺のおふくろと寝てたのかよ」


聡が叫ぶようにそう言うと、音也は少しびっくりした顔をした。


「バカ、セックスじゃないよ。紀沙さんはいずれおまえの下について、おまえのために働くやつが欲しかったんだ。おまえの未来のために投資したんだよ」

「おれの、みらい?」

「そう。つまり紀沙さんは、松ヶ峰聡の初選挙で自分の代わりに動く男がほしかったんだ。ただの男じゃないぜ。選挙について裏も表も知っていて、いざとなったら汚い手を平気で打てる人間を手に入れることが、紀沙さんのねらいだったんだ。

だからあの人は、おれの西海高校の学費をそっくり肩代わりしてくれた。卒業後はおれを東京の大学に通わせ、同時に紀沙の知っている議員事務所で無給スタッフとして働かせたんだ。おれはそこで、選挙や事務所運営の裏表ぜんぶについて徹底的に叩き込まれた」


聡は、とんとコルヌイエホテルの柔らかいベッドの座り込んだ。

今さらながらに、松ヶ峰紀沙という女の権謀術数けんぼうじゅっすうの深さに圧倒される。

聡が何も知らないうちから、何もかもが用意されていた。

すべては聡のために。

すべては松ヶ峰のために。


「おれの…ため?なにもかも、俺のためだったのか」


聡が可憐な小鳥のようにそうつぶやき続けるのを、音也は複雑な目の色で見ていた。


「正直、うらやましかったぜ」

「なにが?」

「お前と紀沙さん。血もつながらないくせに、仲の良い母子だったからな」


ベッドに座ったままの聡が見上げると、安っぽいグレーのスーツを着たモデルのように美麗な男が、すこし困ったような顔で笑っていた。

いや違う。

困っている顔ではない。


ふと聡の目の前に、昨夜このスイートルームの向かい側で廊下に立っていたやなぎ若木わかぎのような女性の姿が浮かんだ。

そして女性と話していた、美貌のホテルスタッフ・井上の甘やかな、狂おしいような表情。

今の音也は、あの時の井上と同じ表情をしている。


困った顔ではなく。

せつない恋をしている男の顔だ。

死ぬまで隠しきるつもりの恋を、背負せおっている男の顔。


聡はささやくように尋ねた。


「お前、うちのおふくろに惚れていたんだな」


すると音也は、新月しんげつがかすかに夜空を照らすように笑った。


「バカ。紀沙さんのほうじゃねえよ」


音也は足音さえもたてずに、しずかにベッドに座る聡の前に立った。


「おれが惚れているのは、おまえだよ、聡」



★★★

楠音也の指は器用だ。骨ばっていてピアニストのように長く、ピアニストのように繊細に動く。

とりわけ、ベッドの上では。

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