第七十三話 あまりにもつややかで、あまりにも薄汚くて

さとしは無意識のうちに左目の下をこすった。そう言われれば、ちょっと目の下がひりひりする。音也おとやの言うとおり、すり傷ができているのだろう。

それから聡は考える。


高校時代の楠音也は、たしかに金のない家庭を雑誌モデルのバイトで支えていた。

いわば、たぐいまれな美貌を切り売りして家族を養っていたわけだから、名古屋の超名門校・西海せいかい高校のバカ高い学費を払えたわけがない。

聡は、おそるおそる言葉をつないだ。


「お前、奨学金をもらってたんだろ」

「そうだ。だがな聡、よく考えろよ。そもそも金持ち学校の西海せいかいに、奨学金制度なんか必要か?おれが入学するまで奨学金をもらったやつなんか、いなかっただろう」

「…いなかった」

「あれはおれのために、きゅうごしらえで設置された奨学金だ。うちには余分な金は一円もなかったから、おれは、どうしてもカネを払わずに高校に行く必要があったんだ」

「…あの噂は、ほんとうか?お前が、入学前に西海高校の理事の奥さんと…その」


聡が言いよどむと、音也はまるで役者が舞台上で見栄みえを切るようにプラスチックのペットボトルから水を飲み、ごく短く言った。


「ほんとうじゃない」


聡はほっとして


「そうだよな。たかが中学生に、理事の奥さんとのセックスなんてできるはずがない―――」


聡がそこまで言うと、音也はピアニストのような長い指をひらひらさせて聡の言葉をとめた。


が違う。おれが寝ていたのは”理事”のほうだ」


音也はにやりと笑った。その顔があまりにもつややかで、あまりにも薄汚うすぎたいので聡は吐きそうになった。


「り…りじ?あの太った、あぶらっこい男のことか」

「ねちっこい前戯が好きなやつだったが、人の良いオヤジでな。おれがどうしても西海に入りたんだと言ったら、月に三回のセックスで納得したよ」

「おまえ…まさか西海にいるあいだずっと、あいつに…」


音也は答えなかった。

聡はもう、自分の中の何かがぶった切れるのを感じる。

おもわず、音也のグレーのスーツの襟をつかみ上げた。


「なんで、なんで俺に言わなかった!結局はカネだったのか?あのくそじじい、今からぶち殺しに行ってやる」


聡が乱暴に立ちあがると、音也が手をかけてきた。


「サト」

「冗談じゃねえよ、俺の親友を金づくでいたぶりやがって。そのときてめえ、いくつだった?十四か、十五か?そんな子供相手に…くそっ!」

「サト。いいんだ」

「お前が良くても、俺はよくねえよ!」

紀沙きささんが、肩代わりしてくれた」


ふっと、聡は親友の一ミリのあやまちもないような美貌を見た。山奥の静かなふちのような、ひとひとりくらい平気で呑み込んでしまうそこのない淵のような美しさ。

怖いけれど、ひきつけられる。


そんな聡の顔を見て、楠音也はかすかに笑った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る