第七十二話 票のためにお前のカラダを売ってこい

松ヶ峰聡まつがみね さとしはまだぼんやりとしたまま、高級ホテルのスイートルームに似つかわしくないうつろな声で、親友の楠音也くすのき おとやに言った。


「お前が、俺のおふくろの”最後の男”だったんだろう?お前は息子の俺より、ずっとおふくろに近い場所にいたじゃないか。

たまちゃんの相続財産についても知っていたし、財団法人の理事にもなっていた。あの一社いっしゃの家のことも知っていたんじゃないのか」

「一社の家は、おれもしらなかったよ」


と、松ヶ峰聡の冷静な政治秘書はゆっくりと答えた。


「あの家については、紀沙きささんは誰にも教えなかったんじゃないかな。いや、北方きたかた先生はご存じだったのかもしれない」

御稲みしね先生はおふくろと姉妹同然だったからな…そうだ、御稲先生のことだ―――てめえ、よくもあの人に恥かかせやがったな」


聡が詰問きつもんするようにそう言うと、ふっと音也のくちが閉じた。

もともと目を見張るほどにととのっている音也の顔が、さえざえと美しく光る。聡は恋しい男の美貌に視線を奪われながらも、にがにがしく舌打したうちした。


こうなると、この男はテコでもしゃべらない。

音也の沈黙を埋めるべく、聡が躍起やっきになってしゃべるしかない。


「よりによって御稲先生に、昔の男の伝手つてを使わせるとはな」


あのプライドの高い銀髪のバレリーナ・北方御稲きたかたみしねが、どんな気持ちでかつての恋人の身内みうちに頭を下げたのか。

その光景を想像するだけで、聡は息がつまる気がした。

行き場のない聡の怒りは、まっすぐに音也に向かう。


「お前だって、おふくろが死んでから俺がどれほど御稲先生に世話になっているのか、分かってんだろう。よくも、そんなことを頼めたな」

「サト、おれはおまえの選挙参謀だ」


ざくり、と音也はそう言った。


「おまえを勝たせるために、俺はんだ。必要ならばどんなことでもする」

「…どんな、ことでも?」


ああ、と音也は簡単に答えた。口もとの痛みがおさまってきたようで、音也は冷却材代わりにしていたペットボトルのふたをひねって水を飲んだ。


「なんだってやるさ。それがおれのだ」

「じゃあ俺が、票のためにお前のカラダを売ってこいと言ったら、そんなことでもするのかよ、お前は!」

「やるよ」


ぽん、と答えが出た。ごく簡単に。何ごとでもないかのように。


「やるぜ。それで二千でも三千でも票が取れるのならな」

「オト…お前一体、何を言っているんだ」


聡はぼうぜんとして、目の前の親友を眺めた。

急に、音也が見たこともない人間に感じられる。

十年も一緒にいる親友なのに。


まるでコルヌイエホテルの部屋の天井に手が届かないように、楠音也は永遠に聡の手に届かない。

きっと、前世からそう決まっているのだ。


聡の口を開けた顔を見て、音也は笑った。まだ少し口元が痛むのか、ゆがんだ邪悪な笑い方だった。


「おれは、もともとだよ。知っているだろう?」

「しらねえよ」

「知らない?おまえだって、噂くらいは聞いているはずだ。そもそもおれみたいな貧乏人が、なぜ名古屋の名門校・西海高校せいかいこうこうなんかに入れたと思う?」

「…奨学金しょうがくきんがあったからだろ」


聡がうかつに答えると、目の前にいる邪悪な男は、この世にありえないほど美しくせつない顔で笑って見せた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る