第七十一話 おふくろの最後の男

しかし無理な体勢からさとし足払あしばらいとパンチを放った音也おとやも、無傷むきずとはいかなかったらしい。

スイートルームの床に大の字となって伸びる聡の足元で、音也はうずくまって荒い息を整えている。

聡はコルヌイエの高い天井を見上げたまま、なんとか平気そうな声を出した。


「なめたまね、するじゃねえか、音也」

「おれがおまえの秘書だからって、だまって一発食らう必要はない」


音也は完璧なバランスの美貌をゆがませながら、ゆっくりと立ち上がった。

聡のほうはまだ立ち上がれるほど回復していない。あおむけに倒れたまま、顔をしかめてみぞおちを押さえた。


「てめえ、本気でひじを入れやがったな」

「急なことで、加減かげんができなかったんだ。安心しろ、アバラには行ってないから」


目を閉じて痛みに耐える聡の額に、ひたと冷たいものが当たった。

目を開けると、音也が冷蔵庫から出してきた冷たいミネラルウォーターのボトルを白いリネンハンカチで巻き、聡のひたいにあてていた。


「おまえの左目の、した」


と、まだ音也も荒い息のまま言った。


「すり傷ができている、冷やしておいた方がいい。あとが残るとやっかいだ。三日後の夕方には千種区ちくさくの懇親会がある」

「こんしんかい、か」


聡は音也を見ずに、コルヌイエホテルの天井をにらみつけた。

このホテルは三十年前に大がかりなリニューアル工事をして、そのときに天井を高くしたらしい。

聡のように身長が百八十センチを超える男にとって圧迫感がないのは良いことだが、ふと不安を感じることもある。


天井が遠すぎて。

果てしない気がして。

聡はみぞおちの痛みを無視して、思い切って立ち上がってみた。はずみで、ごろんと音也が額に乗せたミネラルウォーターのボトルがころがる。

ふと水のボトルを見た聡の顔色が、変わった。


「…そのハンカチ。うちのおふくろのものだな」


音也は何も答えず、床に落ちたミネラルウォーターのボトルを拾うと真っ白なリネンのハンカチにくるんだまま、あらためて自分の口もとへ持って行った。

よく見ると音也のきれいな唇の端が、すこし赤くなっている。切れたのかも知れない。


まるで真っ白なリネンのハンカチにキスをしているようだ、と聡は思った。

しなやかで夏の香りを帯びたリネンのハンカチは、色事いろごとれた年上の女のように、音也の大きな手の中にたやすくおさまっていた。


聡にはもう、世界がゆがんで見えた。

音也に恋をしていると気づいて以来、ゆがみ続けている聡の世界がとうとう音を立てて崩壊した。


「音也。お前がおふくろの最後の男だったのかよ―――」

「…はあ?」


音也が、二重ふたえまぶたの目をかちりと開いて、聡を見返した。


「おれが、紀沙きささんの―――なんだって?」

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