第七十話 ぶち殺してやる

松ヶ峰聡まつがみね さとしは、広いバンケット会場の反対側にいる美貌の秘書・楠音也くすのき おとやを強い視線でにらみつけた。


「あいつが、御稲みしね先生に…たのんだ?」

「あ、いやいやちょっとまて」


蒼白になった聡の手をつかむようにして、横井よこいがしゃべり始めた。


「お前のところの”番頭ばんとう”を責めるのは、すじちがいだぞ。あれは、お前を勝たせようと思って動いたんだ。佐久さくだって、わしのためならそれくらいのことはする。

政治秘書っつうのはつまりそういうもんだ。

そもそも、あの話の出所でどころはわしだからな。あの美男をせめるなら、先にわしに言え」

「先生は…そんなつもりでおっしゃったんじゃないでしょう」


聡はもう隣の横井を見もせず、まなじりが切れるかと思うほどの視線で、音也をにらみ続けた。

都内有数の高級ホテル・コルヌイエホテルのバンケット会場はバカに広くて、聡がただちに駆け出したとしても音也が逃げ出すほうが早い気がする。


それでも。

聡は音也を捕まえたかった。

捕まえて、コルヌイエホテルのバンケットルームの深紅のじゅうたんに顔を伏せさせて、問い詰めたかった。


おれに、それだけの価値があるのか、と。

松ヶ峰聡まつがみね さとしには、北方御稲きたかたみしねのプライドを捨てさせるだけの価値があるのかと。


今から始めて、夜が明けるまでずっと音也を問い詰めたい。

だが、ここは政治パーティのど真ん中で、聡はこれから政治家になる第一歩を踏み出すところで、そして松ヶ峰聡は政治家になるためだけに二十七年間にわたって育てられてきた男だ。


たとえ最愛の秘書の華麗な顔を踏みつぶすとしても、それはではない。

パーティが終わるまで、と聡は奥歯がすり減りそうなほどあごに力を込めてかみしめた。

このパーティが終わるまでは、あいつの命を預けておこう。

終わったら。

ぶち殺してやる。



★★★

コルヌイエホテルのジュニアスイートに入った瞬間、聡の重いパンチが楠音也の細い身体に向かって走った。

しかしこうなることを予測していたかのように、音也はすばやく身体をかわし、かわりに聡の足元を狙ってきた。


コルヌイエホテルの客室には毛足の長いカーペットが敷き詰められている。

だから万が一聡が音也の足払あしばらいを受け、顔から床に落ちても傷がつかないと判断したのだろう。

政治家にとって外見は命だからだ。


だが音也も無理な態勢からの足払いでバランスを崩した。聡の足を払いながら同時に自分も床に落ちてきた。

聡の上に。


落ちながら、なおも聡のみぞおちを狙ってきたのは、さすがと言うよりほかない。音也は細身ながらケンカの勘がよく、ここぞという時にはかならず的確なところへあててきた。

聡にとっては、味方にすればこれ以上に安心な男はおらず、逆に敵にまわすと厄介やっかいな相手でもある。

そして今は、敵だ。


聡はすばやく床の上で身体をひねり、音也のピンポイントのパンチをよけた。

しかしよけたはずの一撃は、みごとに聡のみぞおちへヒットした。


「…かはっ」


聡は大きく息を吐き、痛みに耐えた。

くやしまぎれに目を開けると、数センチの距離に、つややかで流麗な楠音也くすのき おとやの美貌があった。

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