第六十九話 この恋が終わったら、俺は抜けガラ

「それだ北方きたかたさんだよ」


と言いながら横井よこいはキンカンのようにまるい禿頭とくとうをふりふり、ヤケのようになってもう一本、煙草をくわえた。


「あのひとも、お前を息子同様にかわいがっとるだろうが」

御稲みしね先生が可愛がっているのは、おれの妹分いもうとぶんの、たまちゃんだけですよ。できの悪い兄貴はどうだっていいんでしょう」


横井の隣に立つさとしが、また煙草に火をつけてやろうとライターの入っているチャコールグレーのスーツの胸に手を伸ばす。

そう言いながら、ふと聡はにぎやかなコルヌイエホテルのバンケット会場のすみに立つ、美貌の秘書・楠音也くすのき おとやを眺めた。

音也は横井の秘書である佐久さくの隣に立ち、熱心に何か話しこんでいる。


平凡なグレーのスーツにグレーのネクタイを締めただけの姿なのに、音也はあたりを圧倒するような輝きを見せていた。

音也が笑えば光が満ち、音也が真剣な顔をすれば聡の身体の芯が熱くなる。

聡にとっては、なにもかも音也が起点になっていた。

美しく有能で、しかし冷酷さを隠さない親友が聡の行動を支配している。

この恋が終わったら、俺は抜けガラだなと聡は思った。


人でいっぱいのバンケット会場で、聡があまりにも音也に意識を集中させすぎたせいだろう、あやうく横井の言葉を聞きのがすところだった。


「そうはいってもな、よっぽどお前が可愛くなければ、北方さんだってをやってくれんぞ。結局、”自由党”はお前の対立候補を出さんと決めたらしい」

「はあ、そうみたいですね―――えっ、何ですって」


聡はまじまじと小柄な横井を見つめた。横井の身長は百六十センチたらずで、百八十四センチある聡よりぐっと小さい。小さいながらも独特の存在感があるのは、数回の副大臣をつとめた政治家の貫禄かんろくだろうか。

聡は、政治家としてのオヤに当たる横井に、尋ね返した。


「自由党は、俺の対立候補を出さない?だけど今回は県議けんぎあがりのベテランを持ってくる予定だったでしょう」


そうだ、と横井謙吉よこいけんきちは簡単にうなずいた。


「だが、そいつは県議議長に決まった。衆院選は取りやめだ。鹿島かしま一声ひとこえはやはり、でかいな」

「先生。俺はちょっと話が見えませんが…自由党の鹿島幹事長かしまかんじちょうが、俺の対立候補を出さないと決めたんですか?」

「そうだ」

「幹事長が、たかが地方の衆院選挙に口を出すだなんて、何があったんです?」

「―――なんじゃ、お前は何も知らんのか、松ヶ峰まつがみね


やがて、横井の口から容易ならぬことがもれた。

聡はもう、愕然がくぜんとする。


「では…御稲みしね先生が昔の恋人の伝手つてを使って、鹿島幹事長に立候補の取りやめを頼んだんですか?」

「ま、そういうことだわな」

「御稲先生は、絶対にそう言うことをしない人ですが」

「わしもそう思った。しかしまあ、最後はお前が可愛かったということだ。初めての選挙をしくじらせたくないとまで、鹿島に言ったそうだぞ」


ちがう、と聡は思った。

北方御稲きたかたみしねとは、聡かわいさのあまりに昔の男のことを掘り起こすタイプの人間ではない。

むしろ聡をつきはなして、千尋せんじんたにからいあがってくるのを崖上(がけうえ)から眺めているひとだ。


それが、なぜ?

考えたとたんに、聡の頭の中でさまざまな符号ふごうがつながり始めた。

音也がひとりで行ったという御稲先生への”あいさつ”。

聡の事務所に届けられた箱いっぱいのシガリロ。

そして音也が持っていた、御稲みしね愛用のシガーカッター。


「…音也か」


聡のつぶやきが、華やかにシャンデリアが輝くコルヌイエホテルのバンケット会場で、低く響いた。

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