第六十八話 計算と冷静と、離せない手

松ヶ峰聡まつがみね さとしは、華やかなコルヌイエホテルのバンケットルームを眺めて言った。


「俺が生まれたころ、母はまだ三十すぎだったはずです。自分の子供を持つ可能性だってあったでしょう。なにも愛人の子供を引き取らなくても良かったのに」

「そりゃ、お前。紀沙きささんなりの計算があったんだわ」


横井よこいはギリギリまで吸い終えたハイライトを、いかにもしそうに灰皿に押しつぶして捨てた。

長年ヘビースモーカーだった横井は、数年前から一日に吸ってもいい煙草を五本まで、と妻に決められた。だから一本一本が貴重なのだ。

横井は名残なごりおしげに、吸いがらを見ながら続けた。


「計算、と言うたら紀沙さんが気の毒かも知れんな。しかしお前を引き取ることで、紀沙さんは松ヶ峰の先代の弱みを握り、あの家のなかで”一番いい場所”に座ることができた。あのひとは自分にはもう子どもが生まれんとわかっとったんだろう。結婚して十年近くたっていたからな」

「俺は、親父とおふくろのあいだのきの材料でしたか」


聡がそう言うと、さすがに横井はしぶい顔をして


「そうまでは言わん。ただお前を引き取る前に、紀沙さんはそれだけの計算をしつくした、ということだわ。

考えてみりゃな、松ヶ峰家は先代せんだいより紀沙さんのほうに政治センスがあった。あの人が男なら、ええところまで登りつめただろうな」

「でもおふくろは、女でした」


ふんとうなりながら、横井はスーツのポケットからまた煙草の箱を出し、もう一本吸おうかどうしようかとくしゃくしゃになった箱をためつすがめつした。


「そうだ、あのひとは女だった。おまけに松ヶ峰の嫁だった。となれば、あのひとはのどから手が出るほどに”息子”が欲しかっただろうて。

わしはな松ヶ峰、紀沙さんがお前を連れて、初めてうちの事務所に来た時のことは、忘れられんな」

「俺が、十二歳のときですね」

「あのとき、お前の母親は言うたんだ。

『これが、でございます。必ず政治家として役立つよう、お仕込みください』とな」


聡は整った顔の中で、やや太い眉をあげた。


「おふくろが、言いそうなことです」


すると横井はまわりが驚くような大きな声で笑った。


「いやさ、忘れられんのはな、そんなふうに冷静なことを言いながら、紀沙さんの手がどうしてもお前の手を離さんかったことだ。お前をうちの事務所に置いて、ほんの一時間ほど離れていることができんかったんだ。

あの時は結局、ウチのがホテルだかどこだかの喫茶店へ紀沙さんを引きずり出して、なんとかした」

「…母が、そんなことを?」


聡は目を丸くした。

自分と母の二人で横井事務所へ行ったことはあざやかにおぼえているのに、母が事務所から出られなかったことは記憶にない。

ぼうぜんとする聡にむかい、横井はふくみのある目の色で笑った。


「そういうものだよ、親とはな」

「ありがたいですね」

「そうだな。しかしあれだ、お前には母親代わりが、もうひとりいるじゃないか。あの人も、ずいぶんお前がかわいいとみえる」

「母親代わり…?ああ、御稲みしね先生のことですか」

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