第七十七話 甘すぎる声はきちんとひとつずつナンバーを振られて

音也おとやの歯が、さとしの耳たぶを噛む。暴虐さを秘めた圧力が、音也の歯から聡の耳に伝わった。

そして音也の歯が、松ヶ峰聡の黄金のまゆにヒビを入れる。

音也の舌が指が、体温が。声が聡をゆすりたてた。そして深いバリトンが、松ヶ峰聡のまゆを食いやぶって覚醒させてゆく。


ふいに、聡の目の前で青空がひらけたように”松ヶ峰聡まつがみね さとしである”ことが失われた。

数百年続くと言われる名家めいかを継ぐためにだけ、二十七年をかけて傷ひとつない玉のように育てられてきた男が、ただの聡になった。

松ヶ峰聡でありながら、同時に音也の愛撫を受けるためだけに存在する、ひとりの男がそこにいた。


そして深い悦楽が聡の咽喉からあふれてくる。

身体の奥底からひたひたとにじみ出す愉悦は、たったひとつの名前をともなって清水しみずのごとく絶えまなくきあがった。


「おと…おと…」

「…うん」


ぐっと、音也が聡をきつく抱きしめた。


「いいんだ。いけよ、聡」


聡は両手でつかみしめている安っぽいスーツのジャケットにしがみついて、生まれて初めての完全な歓喜を味わった。

身体が、耳が脳髄が皮膚が、すべてがたからかに愉悦を歌い上げている。

乾ききった大地に穿うがたれたヒビから、水の恵みが自然に満ちあふれてくるように。

聡は足の爪の先まで伸ばしきって、初めての快楽をむさぼった。


「…音也っ」


聡のくちから、悲鳴のような声が放たれた。その声は丁寧ていねいに拾い上げられ、音也の中にしまい込まれてゆく。

聡の甘すぎる声はきちんとひとつずつナンバーを振られて、あらかじめ決められた棚に収められてゆく。

まるでそこが、太古の昔から約束されていた場所のように。


そして楠音也くすのき おとやは大切な人の骨をカケラひとつも残さず拾う人のごとく、聡の悦楽の影をそっと飲み干した。

聡のふるえが、音也の舌の上に乗る。

それから音也は柔らかな声で最後の言葉を注ぎこんだ。


「あいしているよ。おれがほんとうに愛したのはおまえだけだ。だから聡―――何もかも忘れてくれ。おれのために」


バラ色の快楽の中で、聡の頭はちかりと気がかりなことをつかみあげた。

音也は何を言っているんだ?


あいしている?ほんとうに?


そして。

わすれろ?


松ヶ峰聡に意識があったのは、そこまでだった。

甘い悦楽に脱力した男の首筋に、音也の手刀しゅとうが音もなく吸い込まれた。的確に狙いすまされた一撃が、聡の意識を断ち切る。

薄れゆく意識のもとで、松ヶ峰聡が最後に見た音也は笑っていた。


この世にあってはならない花の前に、何もかもを投げ出してぬかづいてしまった人のように。

禁忌きんきの香りに包まれて、みずから望んで堕天だてんするひとのように。


そして、この先に何があるのか知りたくもないという顔をして、楠音也は最後のキスを聡の唇にのこしていった。


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