第百十二話 今夜は空に、星もない

「明日…?覚王山かくおうざん北方きたかた先生と約束がありましたっけ?明日の予定は、夕方の横井よこい先生の事務所詣じむしょもうでだけのはずですが」


今野こんのは車を走らせながら聡に尋ねた。頭の中では、今日突然に音也から送りつけられた聡のスケジュールを確認しているのだろう。

こいつ、意外と使えるやつかもな、と聡は新種の鳥でも眺めるように、年若としわかい部下を見た。


「予定はなかった。さっき、アポを取ったんだ。あ、たまちゃんも一緒に行くぜ」

「俺、覚王山まで送りましょうか?」


今野はベンツを松ヶ峰家まつがみねけの門の前にとめてから、聞いた。聡は少しだけ考えてから首を振り


「いや、いい。地下鉄で行くからな。コン、今夜はもう帰っていいぞ。車はこのまま乗って帰れ。明日、横井先生の事務所に乗って来いよ」


聡がそう言うと、今野はむうっと口をとがらせ


「ジョーダンでしょ。こんなクッソ高い車、俺のボロアパートの前にとめておけませんよ。車庫に入れてから地下鉄で帰ります。あの、それと」


うん?と聡が運転席を見ると、めずらしく今野が言いよどんでいる。


「なんだよ、コン」

「その…あっ、荷物、俺が荷物を運びますから」

「いいよ。カバン一個じゃねえか」

「いや、俺は今日からしばらく秘書代理だし。オヤジに荷物は持たせられねえってか」


聡はここまで聞いてからにやりと笑った。そして隣の運転席にいる若い部下の頭をこづいた。


「違うだろ。お前、たまちゃんが目当めあてだな」

「や…ちがくて…そんな」

「昨日の夜、オトにうるさいことを言われたんだろう?たまちゃんに近づくな、とかなんとか」


聡がちゃかしてそう言うと、今野はここだけ真面目な顔になって言った。


「言われたっす。でも聡さん」

「ん?」

「俺、音也のアニキに半殺はんごろしにされても、たまきちゃんのことはあきらめないです」

「あああ?」


聡は少し驚いて、隣に座る今野の顔を見直した。

今野の顔はいつもの調子のよいヘラヘラした感じではなく、きりりと引き締まり、まっすぐに前を見ていた。

聡は不意に、昨夜の名古屋駅前で見た今野の背中を思い出した。

安っぽいスーツの下で、不意に、ぎわりと大きくふくらんだ若い男の背中。ケダモノじみた、動作性に満ちた背中だった。

それと同じケダモノの色が、いま、今野の目の中にある。


「俺、環ちゃんが好きです。もう何があっても、あきらめねえ」

「…そっか」


聡はもう一度今野の頭をこづくつもりであげた手で、ピッとデコピンした。


「本気だな、お前」

「ああいう子あいてに、ハンパなことはできねえっすよ」

「たまちゃんは、俺の妹分いもうとぶんだぜ?泣かすようなことをしたら、オトの前に俺がてめえを半殺はんごろしにしてやる」

「泣かせませんよ…あ、ちびっと泣かせたかも」

「ああああ?」

「嘘です、泣かせません。俺が大事に、大事にしますから」

「いい度胸じゃねえか。しかしまあ、オトには秘密にしろよ。あいつ、うるせえから」


そう言って聡が車から降りる。今野も身軽におりてきて、おりたときにはもう手に聡のバッグを持っている。

それから、今野はふと夜空をふりあおぎ、心細こころぼそそうに言った


「音也さん、帰ってくるんすよね」


俺が知りたいよ、と聡は口の中でつぶやいた。

今夜は空に、星もない。

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