第百十三話 ビゼー”カルメン”

松ヶ峰聡まつがみね さとし藤島環ふじしまたまきが愛知県芸術大劇場の客席扉を開けたとき、北方御稲きたかたみしねはまぶしいステージの真正面、闇に沈む客席側に立っていた。


聡は今朝とつぜん御稲から、急なリハーサルが入ったので覚王山かくおうざんの自宅ではなく劇場へ来るように指示されたのだ。

御稲は百七十センチに近い長身をすっくりと立て、厳しい声をステージ上のダンサーに投げつけていた。


「何度言わせるんだ!””のタイミングが違うだろ。タ、タン、の”タ”を待ってちゃ遅いんだよ。音が出る半音前はんおんまえにドンとくるんだ」


そう言うと御稲はかろやかにステージ脇の階段を上がり、客席にいる音声スタッフに向かって、もう一度、音を要求した。

華やかなビゼーのオペラ「カルメン」の前奏が流れ始める。


六十二才になる北方御稲は、とてもその年齢には思えないほどにしなやかな、鍛えぬいた身体でステージのはしに立った。

御稲は、ただ広いステージの奥まった場所に立っているだけなのに、そこだけにきらびやかな光が落ちてきたのを松ヶ峰聡はたしかに見た。


曲に合わせて、すっと御稲の顔があがる。

そして“音が出る半音前”と御稲が言うまさにそのタイミングで、トッと御稲の足がステージの板を踏んだ。

その瞬間、華やかなショウの幕が開いたように聡は感じた。


北方御稲きたかたみしねのようなバレエダンサーにしか作りえない空間ときらびやかさ。

年齢とも美醜とも関わりなく、長年にわたってみずからの身体をいじめ抜き技術を叩き込んできたダンサーにしかできない動作が、御稲の痩身から放たれていた。

文句なく、美しい。

そしてそれ以上に迫力がある動作だった。


「御稲先生が、もう二度と舞台に立たれないなんて、本当にもったいない…」


聡の隣で、妹分いもうとぶんの藤島環がかんえたようにつぶやいた。

聡は苦笑にがわらいをして


「そうだな。しかし、あのひとには人に言わない美意識があるからな。御稲先生自身が、人前ひとまえで踊ることを許せないんだろう」


環は、聡の言葉を聞いているのかいないのか、返事もしないでステージ上で若いバレエダンサーに細かい指示を与えている御稲のしなやかな姿を見つめていた。

そう言えば、と聡は思う。


北方御稲は、ことのほか藤島環をかわいがっている。

聡の亡母・松ヶ峰紀沙まつがみね きさは、親をくした赤ん坊の環を手元に引き取り、娘同様に育てたが、その紀沙と同じくらいに御稲は環をかわいがっている。

時には環に向かって厳しいこともいうが、その厳しさは聡に対するものとはまったく違う。

愛情が、にじみ出している厳しさだ。


この子は、そういう子なんだろうか、と聡はまぶしいステージに再び目をやりながら考えた。

松ヶ峰紀沙が多大な時間と膨大なカネをつぎ込んでしくない、と思った少女。たぐいまれなバレエダンサーがあふれるほどの愛情をそそいでまだ足りない、と思うような少女。

そしてひとりの男に『何があってもあきらめねえ』とまで言わせた少女だ。


聡自身も最後に残った家族として、環には保護欲と愛情を感じる。

不思議な子だな、と聡は闇の中であごをなでながら考えた。

特に美しくも目立めだつところのない少女だが、その柔らかさでまわりの人間を無条件にいやしてしまうような子だ。あの楠音也くすのき おとやでさえ、環が中学生のころから妹のようにかわいがっていた。


音也―――と、聡は口の中にいやな味を感じて、顔をしかめた。

昨日の午後、聡の身体に甘すぎる愉悦を残したきり、姿を消した音也。

その音也が後始末あとしまつのために、今日の聡は北方御稲のもとにやってきたのだ。

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