第百十四話 甘やかで放埓な日々

もっともさとしの隣に立つ藤島環ふじしまたまきは、聡とはまったく別のいをもって、ここへ来たようだ。

御稲みしね先生は、たまちゃんの質問に対してなんと答えるだろうか…。

聡がそこまで考えたとき、ステージを降りた北方御稲きたかたみしねがあの独特の、大地に恩恵おんけいをほどこしているような歩き方で聡と環のほうへやってきた。


「待たせたね。ここまで来てもらって悪かった。この“カルメン”は今日が幕開まくあけで、なのにあの子はまだ最後の仕上げが終わっていなかったんだ」


御稲がそう言ったとき、背後で華やかなビゼーの曲が流れ始めた。

聡はステージに目をやる。するとついさっき御稲が立っていた場所に若いバレエダンサーが同じ角度で立ち、すっと顔を上げて、御稲に言われたとおりのタイミングで軽やかに足を出した。

環が思わず声をあげる。


「ああ、すごくよくなりましたね。あのタイミングでしょう、御稲先生?」


御稲はちらりと背後のステージを見て薄く笑った。


「あの子はね、身体の中にもうあのタイミングを持っていたんだよ。ちょっとだけ、カギでひっかけてタイミングを引き出してやる人間が必要だっただけさ。さあ、カフェでコーヒーでも飲もう、環。久しぶりに大きな音に合わせて動くと、疲れるよ」


そう言うと、御稲は聡など顔も見もせずに、環を連れて暗い客席の間を歩いて行った。

その後を、苦笑しながら聡がついて歩く。



★★★

県芸術センターのカフェに座った北方御稲は、かっきりとを描いた眉を片方だけあげてから、テーブルに置かれたロレックスを見た。それから反対側に座る松ヶ峰聡と環に視線をうつす。

御稲の顔の中でややとがった鼻が聡を突っつきそうに思える。鈍重な獲物をいたぶる、猛禽類のような鼻だ。

聡は思わず亀のごとく首を引っこめた。

しかし環は、果敢かかんに御稲に食らいついていった。


「この時計は、御稲先生のお知り合いのものではないかと思うのですが。持ち主は、“かしましろう”さんではありませんか」


環がこわばった表情でそう言うと、御稲はブラックコーヒーのカップを持ち上げて、ふうと重いため息をついた。


「どこのトンマがそんな名前をほじくり返して来たんだか。違うよ、そいつは史郎しろうのものじゃない」


史郎、という呼び方が、北方とかつての恋人の間にあった甘い日々をほうふつとさせた。聡は、御稲の表情の色気に思わずぞくりとする。

王侯貴族のように首をもたげている銀髪のシルフィードの、甘やかで放埓ほうらつな日々。

遠く、四十年はさかのぼる恋だ。


北方は骨ばって見える手でロレックスを取り上げた。

午後早い時間のカフェで、長いあいだ放置されていた腕時計の金属バンドが、カシャッと軽い音を立てた。

北方は時計をひっくり返して、例のイニシャルを聡と環に見せた。


「K・S。“しろう・かしま”じゃあ逆イニシャルだ」

「ええ。でも、ほかに思い当たる方がいなくて…」


環がややトーンダウンしてそう言うと、北方は小さな銀髪の頭を振ってから、そっとロレックスの裏の刻印に指をすべらせた。

まるで、その文字を通してかつての日々をいとおしむように。


「この時計はね、紀沙きさのだよ」

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