第百十五話 それはもう、理屈じゃない
明るい初夏のカフェで、
「はい、たしかにこの腕時計は
「ああ、そうか。お前はあの家に行ったんだね―――そうだ、そう言っていた、あの
「売るなんて…大事に取っておきます。あの、御稲先生」
「うん?」
「では、このイニシャルの意味は?紀沙おばさまのイニシャルはK・Mです。Sではありません」
御稲は環の言葉を受けて答えようとして、ちらりと
その目の色を見て、聡は嫌な予感がした。
想像もしなかったものが、あけてはいけない箱から飛び出してきそうな感じ。
たぶん
聡は重い口をひらいた。
「K・Sの“K”のほうはともかく、“S”は“
ふん、と聡の言葉に銀髪のシルフィードは鼻を鳴らした。
「お前にしちゃ、めずらしく頭が切れるじゃないか聡」
「
あのおふくろのアトリエには、俺とたまちゃんが見たこともないものが山ほどあった。水墨画しか描いたことのないおふくろの
そもそも、あの家そのものがおふくろの秘密の
聡が隣を見ると、環が蒼白な顔で御稲の手の中にある時計を見つめていた。
そこへ、ぽん、と投げ出すように御稲が言った。
「
こくっと、環が
「ごく若いころの話だよ。あたしと紀沙が東京の大学にいたころのことだ。あのころ城見はまだ大学の映像科の学生で、海のものとも山のものとも知れなかった。
ひょんなことから城見と紀沙は付き合い始めて、それでもうまくいかなくて、最後は紀沙が城見を捨てたんだ―――少なくとも」
と言って、御稲はそっとロレックスをカフェのテーブルに置いた。
「少なくとも杞紗はあたしに、そう言っていた。紀沙と城見、どっちが先に別れると言い出したのか、あたしは知らない。紀沙にとってはどうでもよかったんだろう。
あの男と別れる事と、この世のすべてが崩れていくことは、紀沙の中では同じだったから」
「おばさまは」
と、環は小さな声で言った。
聡が隣を見ると環の目はいっぱいまで広げられ、まつげがかすかにふるえている。
「おばさまは、その方を愛していらしたのでしょうか」
「惚れていたよ」
と、御稲は環をまっすぐに見ていった。
これだけは伝えておかなければ死ねない、といったふうに、力のある目で環を見ていた。
「あの男しかいないと思い切るほどに、惚れていた。
それでも、紀沙にはあの男しかいなかったんだ。それはもう、理屈じゃない――――今のお前なら、わかるだろ?環」
環は見ひらいた目じりを少しゆるめ、ぽっと目もとを赤らめてうなずいた。
そんな
”今の”たまちゃんならわかる?
何をだ?
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