第百十五話 それはもう、理屈じゃない

明るい初夏のカフェで、藤島環ふじしまたまき北方御稲きたかたみしねに向かって、こくりとうなずいた。


「はい、たしかにこの腕時計は紀沙きさおばさまのアトリエにありました。あの一社いっしゃのお家に」

「ああ、そうか。お前はあの家に行ったんだね―――そうだ、そう言っていた、あのつるみたいな男が―――ねえ環、この時計は、紀沙があの家ごとお前にのこしたものだ。売るなり捨てるなり、お前の好きにするがいいよ」

「売るなんて…大事に取っておきます。あの、御稲先生」

「うん?」

「では、このイニシャルの意味は?紀沙おばさまのイニシャルはK・Mです。Sではありません」


御稲は環の言葉を受けて答えようとして、ちらりとさとしを見た。

その目の色を見て、聡は嫌な予感がした。

想像もしなかったものが、あけてはいけない箱から飛び出してきそうな感じ。

たぶん禁忌きんきの箱をあけてしまった少女も、同じような予感に包まれて、それでも『やらねばならぬ』と思って勇気をふりしぼったのだろう。

聡は重い口をひらいた。


「K・Sの“K”のほうはともかく、“S”は“城見龍里しろみりゅうり”の頭文字ですね」


ふん、と聡の言葉に銀髪のシルフィードは鼻を鳴らした。


「お前にしちゃ、めずらしく頭が切れるじゃないか聡」

演繹法えんえきほうってやつですよ。

あのおふくろのアトリエには、俺とたまちゃんが見たこともないものが山ほどあった。水墨画しか描いたことのないおふくろのいろあざやかな少女の絵、特定の映画監督の作品のDVDボックス。

そもそも、あの家そのものがおふくろの秘密のかくだった。あの映画監督との関連性がないと思うほうが、おかしい」


聡が隣を見ると、環が蒼白な顔で御稲の手の中にある時計を見つめていた。

そこへ、ぽん、と投げ出すように御稲が言った。


城見しろみはね、だったんだ」


こくっと、環がつばをのむ音さえ、聡には聞こえた。


「ごく若いころの話だよ。あたしと紀沙が東京の大学にいたころのことだ。あのころ城見はまだ大学の映像科の学生で、海のものとも山のものとも知れなかった。

ひょんなことから城見と紀沙は付き合い始めて、それでもうまくいかなくて、最後は紀沙が城見を捨てたんだ―――少なくとも」


と言って、御稲はそっとロレックスをカフェのテーブルに置いた。


「少なくとも杞紗はあたしに、そう言っていた。紀沙と城見、どっちが先に別れると言い出したのか、あたしは知らない。紀沙にとってはどうでもよかったんだろう。

あの男と別れる事と、この世のすべてが崩れていくことは、紀沙の中では同じだったから」

「おばさまは」


と、環は小さな声で言った。

聡が隣を見ると環の目はいっぱいまで広げられ、まつげがかすかにふるえている。


「おばさまは、その方を愛していらしたのでしょうか」

「惚れていたよ」


と、御稲は環をまっすぐに見ていった。

これだけは伝えておかなければ死ねない、といったふうに、力のある目で環を見ていた。


「あの男しかいないと思い切るほどに、惚れていた。らくな道でもなければ、安寧あんねいにつながる男でもないことは、紀沙にもわかっていた。

それでも、紀沙にはあの男しかいなかったんだ。それはもう、理屈じゃない――――今のお前なら、わかるだろ?環」


環は見ひらいた目じりを少しゆるめ、ぽっと目もとを赤らめてうなずいた。

そんな妹分いもうとぶんの表情を、聡はいぶかしげに眺めていた。


”今の”たまちゃんならわかる?

何をだ?

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