第百十六話 どうしようもない恋に落ちていく

藤島環ふじしまたまきは、午後の光を浴びた柔らかな頬をほのかに紅潮させて、北方御稲きたかたみしねに答えた。


「わかる、と思います。わかるようになりました」


すると御稲はシャープな表情をやわめて、微笑んだ。


「そうか、そりゃよかったね、環」

「どうでしょう。いい事なんでしょうか」

「いいに決まっている。どんな人間でもね、自分ではどうしようもない恋に落ちていくことが必要なんだ。

歯止はどめも聞かず、これ以上すすまないほうがいいとわかっていても引きずられていく。

一生のうちで一人くらいこういう男を持たないようじゃあ、女として生まれてきた意味がない」


それから、御稲はもう一度カフェのテーブルから腕時計を取り上げた。環に向かって裏面のイニシャルを見せる。


「こいつはね、“きさ・しろみ”のイニシャルだ。この時計は、城見しろみが仕事関係の誰かからもらったのを紀沙にやったんだよ。

そのころ城見はある大物の映画監督の下について働いていて、酔っぱらった監督からもらったと言っていた。それでこいつを売って金を作って、籍を入れようと」

「籍!?」


さすがにさとしも大声を出した。

それでは、聡の母・松ヶ峰紀沙まつがみね きさは、聡の父親と結婚する前にすでに夫を持ったことがあるのか。


「籍って、じゃあ、おふくろは」

「うるさいな、おちつけ聡。結局、籍は入れなかったんだ。

紀沙はなにか嫌な予感がしたんだろう。ただこの時計に自分のイニシャルだけを入れておいた。元の持ち主の映画監督から、返してくれと言われると困るからと言ってね」

「なぜ、紀沙おばさまは籍を入れなかったのでしょうか。それほど愛していらしたかたなのに」


環がそう尋ねると、御稲は、さあねと言って優雅なしぐさで肩をすくめた。


「もう四十年も前のことだ。理由なんかよくわからないよ。たぶん紀沙は、城見に惚れすぎていることが自分でも怖かったんだろう。過ぎた愛情は、血を流す瞬間があるからね」

「過ぎた愛情は、血を流す…?」


環はぼうぜんとして、御稲の言葉をくりかえした。

御稲は、聡にはいちども見せたこともないような、いとおしげな優しげな目で環を見ていた。

そして手にした時計を、そっと環に渡した。


「この時計は、お前が好きなようにしたらいい、環。これは一社いっしゃの家といっしょに、紀沙がお前にのこしたかったものだ」


しかし環はロレックスを手にしたまま、ためらっていた。


「でも、この時計は本当なら城見監督のところへ行くべきなんじゃないでしょうか。おばさまの、形見かたみとして」


環は隣に座る聡を見て


「サト兄さんがよければ、この時計は城見監督にお返ししたいと思うんですが」

「いいよ。どうせ俺のものじゃないし、たまちゃんがそうしたいと思うのなら、その人に渡したらいい。

ただ、城見監督って人と連絡がつくかな。けっこう有名な映画監督なんだろう?しかも、ふだんは日本じゃなく香港に住んでいるみたいだし」


あっ、と環も小さな声を上げた。聡の言うとおりだと思ったのだろう。

そこへ御稲がたすぶねを出した。


「本気で城見に会う気なら、あたしが仲介してやろう」

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