第百十七話 最初の男はどうせ、たたき台

北方御稲きたかたみしねは、カフェテーブルの向こうに座るたまきに向かって言った。


「ほんとうに、お前が紀沙きさ形見かたみの時計を城見龍里しろみりゅうりに渡したいのなら、何とかなる。

あたしと城見のあいだには共通の知人がまだ何人か、いる。そこをとおせば、お前が会いたがっていると城見に伝えることができるよ」


環は目を丸くして御稲を見た。


「会えるんですか、その、城見監督というかたと」

「お前が本当にそう望めばね―――どうする、環?」

「お会いします」


環は瞬時のためらいもなく、きっぱりとそう言った。

まっすぐに御稲を見て


「城見監督にお時間を取っていただけるのなら、お会いします。直接お会いして、この時計をお渡ししたいんです。

それが紀沙おばさまのご供養くようになると、そう思われませんか、御稲先生?」


御稲は軽く肩をすくめただけだった。

そして椅子に掛けた上着の内ポケットを探り、妙な顔をしてから手を引っ込めた。

そんな御稲を、聡はじっと見つめている。

御稲はわざと聡には一切いっさいの視線をくれず、環にだけ向かって言った。


城見しろみと連絡がついたら、お前に会う方法を教えよう。

ところで、環、さっきからカフェの入り口でうろうろしているオッチョコチョイはお前の知り合いかい?」


聡が背後を見ると、カフェの入り口あたりでしきりに歩き回っている若い男の姿があった。

聡の選挙スタッフの、今野こんのだ。

聡は思わずつぶやいた。


「おかしいな、あいつ、どうしてこんなところに…?十六時に横井よこい先生の事務所で落ち合うはずなのに」


すると環がまるい顔を赤らめて


「あの、私の右足の捻挫ねんざがまだ治りきっていないので、いったん家に送ってから横井先生の事務所に行くって言ってくださって…その、あの」

「ふうん」


と御稲はわずかに伸びあがるように入り口を見た。それから環を見て


か」

「…はあ」

「お前にゃ、ちっとばかり物足ものたりない男だとは思うがね。しかしまあ、お前がそう言うなら」

「その…はい」


御稲は、顔を赤くしてうつむく環を優しく見つめてから、そっと言った。


「さあ、お行き。男を手足のように使うとは、お前もなかなかやるじゃないか」


環はいっそう顔を赤くして、ぺこりと頭を下げてからゆっくりと捻挫のテーピングが付いたままの右足をかばって歩き始めた。

聡はじっと、妹分いもうとぶんの後ろ姿を見送る。


「まさか、コンにかっさらわれるとはね」

「気にするな。最初の男は、どうせ”たたき台”だ。次に期待しな」

「どうだか…ああ見えて、今野もけっこうな男なんでね。ずるずるとたまちゃんを結婚式の祭壇まで引きずっていくかもしれないよ」

「そうかねえ」


と言って環を見送る御稲も、めずらしく落ち着きがない。


「あたしには、とっくに環があいつの首輪をつかんでいるように見えるがね。まあいい。

さて、今度はお前のことだ、聡。ってびをいれたいことがあるとは、どういう意味だ?」


聡は、午後のカフェですっと背筋を伸ばして、深々ふかぶかと御稲に頭を下げた。


音也おとやのことです。あいつが大変な事をお願いいたしまして、まことに申しわけございませんでした」

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