第百十八話 この子を、たすけてやれ御稲

北方御稲きたかたみしねは、すっかり冷めたコーヒーに手を伸ばした。

さとしには、御稲の一挙手一投足いっきょいっとうそくに、責められているような気がする。


聡が生まれた直後から知っている、亡き母の親友。

おのれにも他人にも厳しいバレエダンサーの冷たい視線が、聡に浴びせられていた。

ふいに御稲が口を切る。


「お前が、わびる事じゃない」

「いやしかし。音也おとやが御稲先生にあんなことを頼んだのは、俺の選挙のためです。俺の票取ひょうとりがうまくいっていれば、対立候補を取り下げてくれだなんてことを、むりに先生にねじ込んでもらう必要はなかった。

つまり俺がしっかりしていれば―――」

「そういう事じゃない、と言っているんだ。聡」


聡は視線を落としたまま、次に来るはずの御稲の叱責しっせきを待った。

聡がふがいないから、聡が松ヶ峰家まつがみねけ総領そうりょうとして確固かっこたる行動をとらないから、選挙参謀である楠音也くすのき おとやが、あえて御稲に裏工作を頼まなければならなかった。


その責任は、最終的に聡にあるはずだ。

聡だけに。

しかし次の御稲の言葉は、単なる叱責よりも聡の下腹に、ずしりと響いた。


「あれは、あたしとあいだだけのことだ。お前にはる余地はないんだよ」

「先生と、音也のあいだ…?いったい、どういう意味です?

あいつはなぜ簡単に、俺のまわりの人間の内部へ入りこめるんだ。俺の中には一歩も入ってこようとしないくせに―――」


さとし、と御稲はもう一度いった。


「聡。いいか、あたしがあの子の頼みを聞いてやろうと思ったのは、お前のためだけじゃない。あの子が、死んだ史郎しろうに似ていたからだよ」

「何をワケのわからないことを言って―――え、しろう?自由党の、鹿島かしま幹事長の弟さんの、鹿島史郎かしましろうさんのことですか」


聡は混乱したまま、御稲の顔を見た。

きれいになめしたような皮膚の上に、かっきりと秀麗な御稲の目鼻めはなが乗っている。

このひとはこのひとで恐ろしいほどに美しい、と聡は思った。


そのシャープな御稲の顔が、聡を見ている。

ほんの少しだけ、眉間みけんにしわをよせて。


「先月かな。あの子があたしに、お前の対立候補をひっこめるよう、鹿島かしまの兄に口をきいてほしいと頼んできた。

初めは、そんなことをしてやるつもりはなかったよ。どんな相手が立候補しようが、お前は勝てると思っていたしね。それなのに」


と、御稲は骨っぽい指で持っていたコーヒーカップをテーブルに置いた。

磁器のカップと磁器の皿がぶつかって、かちん、と高い音を立てた。


「あの子が話しているあいだじゅう、あたしの耳にはなぜかずっと史郎の声が聞こえていた。

”この子を、たすけてやれ御稲。お前が助けられなかった俺の代わりに、この子を助けてやれ”って」

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