第百十九話 古いスーツに残った影

「…鹿島かしま幹事長の弟さんは、音也おとやと似ていましたか?」


さとしは、思わず北方御稲きたかたみしねにそう言った。午後のカフェの中で、御稲の座っている場所だけがしんとしているようだった。


「似ていなかったよ」


ぽつり、と御稲は答えた。


「まるで似ていなかった。くすのきは、あの子はそこにいるだけで、まわりの人間が息をのむような男だろう。

史郎しろうはそういう男じゃなかった。そのかわりに特定の人間の皮膚から入り込んで、いつのまにか、いなくてはならない存在になっている男だった。だいいち、史郎はあれほどの美貌じゃなかったよ」


それなのにね、と御稲は続けた。


「どういうはずみかな、あの子を初めて見たときに史郎と似ていると思ったんだ。妙な話だよ、背格好せかっこうも顔もまったくべつものなのに、あの子はまるで史郎の古いスーツに残った影のように見えたんだ。

だから、自由党の鹿島に話を通したのはお前のためじゃない。あえて言うならあの子と史郎のためだよ、聡」


聡は、母親の親友のしわの刻まれた美しい顔をじっと見た。


「音也に、シガリロと愛用のシガーカッターをやったのはそのせいですか。あいつが鹿島史郎さんを思い出させるから?」


ふふ、と北方御稲は軽やかに笑った。


「あの子、シガリロをやっているかい?」

「試しているみたいですよ。でも、吸うのがむずかしいと言っていました。俺の前では吸いませんよ、まだまだカッコ悪いからって言ってね」

「お前には、みっともないところを見せたくないんだろう。史郎もそう言う男だったよ。意地っぱりで、見栄みえっぱりでね。

まあ、惚れた相手に見栄みえもはれないようじゃあ、ろくな男じゃない」


御稲はここで言葉を切り、ふと顔を上げてビルの十二階の屋上庭園を見た。

まぶしい初夏の光の下で白くかがやく石畳いしだたみと、やわらかい新芽を吹き出している植栽のみどりが、不似合いなほどに聡にまぶしく見えた。

それから、北方御稲はまるで別のことを話しはじめた。


たまき城見しろみに会わせるときには、ね」

「しろみ?ああ、城見監督のこと?」


御稲はいつものように決然とうなずき


「環を、ひとりで行かせなさい。お前やあの美男の秘書がついて行ってはいけないよ。心配なら、環のまわりでチョコマカしているあの忠犬ちゅうけんみたいな男をつけてやるんだね」

「忠犬って、今野こんののこと?なんで俺や音也おとやではダメで、コンだけはいいっての?理由を知りたいよ」

「あの男あいてなら、環が自由に泣けるからさ。お前やあの子じゃ、そうはいかない」

「なんだよ、それ。おれはたまちゃんの家族だぜ?それじゃあ足りないって言うの?」


聡がムッとして言い返すと、御稲はあきれた顔をして


「女には、ってものがあるんだよ。まったくお前は、物の尋ね方を知らないね」


ふう、と息を吐いてから御稲は隣の椅子に放り出したままの上着を手にした。それからふと、尋ねる。


「あの子―――東京から帰ってこなかったんだって?」

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