第百二十話 こっちが、泣きたくなるような愛情

さとしは突然かわった話題について行けなくて、一瞬だけ、言葉に詰まった。

それから、あわてたようにいつもより早い口調で御稲みしねに答えた。


「東京から帰ってこなかった?なにが――ああ、音也おとやのことか。いやあれは別に。その、うちだって選挙直前なんだ。参謀がって、おかしくないでしょうが」


聡の答えに、御稲は上着を着ながらフンと鼻を鳴らした。


「地下?そんな下準備はとっくに終わってるだろう。

あの子と紀沙きさは、ずいぶん前から今度の選挙の準備をしていた。するべきことは何もかももう終わっているんだ。あとは、祭りが始まるのを待つだけだ」

「俺が、さらし者になる祭りだね。あとはもうあいつの言うがままに踊りゃいい。俺はあやつり人形みたいなものだよ」


にくにくしげに聡がそう言うと、御稲がじっと顔を見た。


「あの子の前で、そんなことを言うんじゃないよ。お前をまともな政治家にする、その一点だけであの子は持ちこたえているんだ。

見ているこっちが、泣きたくなるような愛情じゃないか」

「あいじょう?」


聡はぼうぜんと、カフェの椅子から立ち上がった北方御稲きたかたみしねの百七十センチの姿を見た。


「…愛情?」


御稲は、もう心底しんそこうんざりしたという顔で聡を見おろし


「だから、無神経な男はイヤだというんだ。

あの子にとっちゃ、このままお前のところへ戻ってこないほうがよっぽどらくさ。戻ってこないほうに一万円を賭けるよ、あたしは」

「ばかな。帰ってきますよ、二週間後にはね」

「二週間後?」


と御稲はちょっとだけ目を見はった。


「なぜ、二週間なんだ」

「あいつが、コンに送り付けてきた俺のスケジュール。あれがちょうど二週間分だからですよ。

二週間たったら、一度は戻ってくるんでしょう。後のことはどうするか知らないが」

「ああ、そう言うことか。なんだ、意外とあの男のことがわかっているじゃないか聡」


そう言われた聡は勢いをつけて立ち上がり、御稲の隣に立った。

御稲は身長が百七十センチちかいが、聡は百八十センチを優に超えている。御稲を、やや見おろす角度になった。


「センセ、俺の記憶にあるより小さくなったね」

「お前がバカに大きくなったんだ」


そう言いながら、御稲は聡のひたいにかかった前髪を、長い指ではらった。


「選挙の前には、もう髪を少し切りなさい。お前は見栄みばえだけがイノチの候補者だから」

「おふくろみたいなことを言うんだね」

「紀沙はもういない。の後始末をして歩くのが、あたしの仕事さ」


そういうと御稲はカフェのテーブルから請求書を取り、さりげなく聡におしつけた。


「貴重な助言の数々は、コーヒーの一杯でチャラにしてやるよ」


そう言って、ひらりと身をひるがえしたバレエダンサーは、あの踏みつける一足ごとに世界へ恩恵をほどこしているような歩き方で、カフェから出ていった。

その六十過ぎとは思えないしなやかな後ろ姿を見ながら、聡はニヤリと笑う。


「ガキのころ、俺があの人に惚れなかったのは奇跡だね」


そして松ヶ峰聡まつがみね さとしが惚れたのは、この世でたったひとりだけ。

今は行方ゆくえも知れない、親友だけ。


聡は軽くため息をついた。

音也のいない二週間が、暗い口をあけて聡を呑み込もうとしていた。

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