第五章

1「松ヶ峰聡と、見知らぬ男」

第百十一話 「知るかよ」

さとしが東京から名古屋駅に着いたのは、予定通りの午後八時半だった。

名古屋駅の太閤通たいこうどおりにちかい新幹線改札を一人で出てきた聡を迎えたのは、事務所スタッフの今野こんのだ。

今野は何も言わずに聡の手からカバンを取り、車まで誘導した。


荷物を積み、聡がベンツの助手席に乗ると、今野はすばやく運転席にはいりエンジンをかけた。

ベンツの重低音が聞こえてくる。

聡はふと、昼間に乗ったコルヌイエホテルのホテルマン・井上いのうえのミニのどすのきいたエンジン音を思い出した。


「コン、お前ミニに乗ったことはあるか。クラブマンだ」

「ミニ?車のですか。あの小さいイギリス車?」

「うん。あれ、いいな。いくらぐらいするんだろう」


さあ、と今野はいている車道を走らせながら首をひねった。


「あれは、ヨーロッパ車のなかでもそれほど高くないほうですよ。クラブマンは、一番いいグレードでも五百万でおつりがくるんじゃないですか」

「そんなものか。うちの車庫には一台あったかな」


今野が意外とうまくハンドルをあやつりながら、あきれたように言った。


「ないっすよ…高級車をつかまえて、そんな八百屋の芋みたいに言わないでくださいよ」

「ふうん。うちにはないのか。お前さ、明日どっかで一台買って来いよ」

「えええ?車をですか?」

「うん。ミニのクラブマンを」

「…色とか、グレードとかあるでしょうが」

「何でもいい。あ、モスグリーンだけはやめてくれ。さすがにそこまではマネするのはな…」


聡がのんきそうにそう言うと、今野はさすがに鼻白はなじらんだように


「聡さん、何をワケわかんないことを言ってんですか。それどころじゃないでしょう。明日から俺、音也おとやさんなしでどうしたらいいんですか。何なんですか”秘書代理”って」

「ああ、それな」


そう言ったきり聡は黙り込み、走りすぎてゆく車窓の夜景を眺めた。

名古屋は夜がとりわけ早い土地で、今はまだ夜九時にもなっていないはずなのに街の夜気やきは、すでに静まり始めている。

今野は、ふうとため息をついてから小さな声でひそっと問いかけた。


「音也さん、どこいったんですか」

「知るかよ」


聡は乱暴に言ってスーツの内ポケットから煙草を取り出した。箱から一本をくわえて引き抜き、火をつける。


「コン。俺は明日、午後イチで覚王山かくおうざんへ行く。お前は先に横井よこい先生の事務所にいってろ。夕方、あっちで落ち合おう」

「了解っす。ん?覚王山?」


今野が聞き返す。聡はふううっと煙草の煙を吐いて、言いにくい言葉を口にした。


御稲みしね先生のところだよ」

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