第九十七話 生きてゆくための大切な手がかり

「何だったんだよ……」


さとしの最後のつぶやきは、誰にもひろわれずにぽんと初夏の午後の空気に浮いたままだった。

聡のかたわらにいる井上いのうえは黙って仕立てのダークスーツの内ポケットに手を伸ばした。それから小さな声で、あっと言ってから手を引っ込めた。


日本橋にほんばしでは吸えないんでしたね」

「煙草ですか」

「ホテルマンにあるまじき悪習あくしゅうです。やめねばと思っているのですが――やめられません」


はっと、聡は隣に立つ長身のホテルマンを見た。

井上は煙草のことを言っているのではない。

あの女性のことを言っているのだ。


聡よりほんの数センチ背の高い美貌のホテルマンは、聡より十歳ほど年上で、たいていの男が知らないようなせつない恋を知っていた。

聡と同じように。


「……どれくらい、やめられないんですか」


聡がじっと井上の顔を見てそう尋ねると、美貌の男はシルバーフレームの奥できれいな目を軽くふせた。

薄いやいばのような目が伏せられると、男が見てもぞくっとするほどの色気が、井上の目元に薄くにじんだ。


「十五年……いえ、もう十六年になります。初めて見たのは、わたくしが二十歳の時でしたから」

「さぞかし、美しかったでしょうね」


思わず聡がそう言うと、井上は目を伏せたまま、そっと笑った。

せつなさが、井上の目元から口元からき出して、長い首にそって流れ落ち、仕立ての良いダークスーツの肩にぶつかってはじけて飛んだ。


「この世には、美しいものがたくさんございます。なにも、ひとつのはずがない」


だがそう言っている井上も、井上の言葉を聞いている聡も、そうではないことが分かっている。

この世には、美しいものがたくさんある。

しかし井上と聡にとって最も美しいものは、この世にひとつしかないのだ。

やなぎ若木わかぎのような女性と、楠音也くすのき おとやだけ。

井上と聡の恋情をあおりたて、失くしたい恋をうしなわせてくれないものだ。


ちょうど日本橋にほんばしに座る二体の麒麟像きりんぞうのように、井上も聡も頭上を絶望にふさがれて、ここからどこへも行けない。

聡はもう一度麒麟像を見上げた。


龍の顔とブロンズのうろこを持ち、燃え上がる尻尾の上で小さな羽根をはためかせた麒麟は、泣くことも叫ぶこともできずに、じっとさだめられた方向を見つめている。

にがい味のする華麗な運命を、だまって受け入れるように。

聡は麒麟に向かって言った。


「あいつは俺を、自分にとってのたったひとつの夢だと言っていました。あいつにとって、俺はしょせん夢なんです。

俺がどれほど思っていても、夢ではどうにもなりません。夢だけをもって人生へ踏み出そうという人間はいないですから」

「夢は、もっとも強いもののひとつですよ。夢さえ持たない人間は、朝になっても目を覚ますことができないでしょう。そのかたにとっての松ヶ峰まつがみね様は、生きてゆくための大切な手がかりなのです。

たとえうしなったほうがらくに生きられるとわかっていても、失くすことはできないものなのですよ」


井上はそう言って目を見開き、微笑んだ。

その瞬間、聡には仕立ての良いダークスーツの下に隠された、井上の傷のすべてが見えたような気がした。

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