第九十八話 言葉に出した恋は、男をどうしようもなく駆り立ててゆく

午後の日本橋に立つ美貌のホテルマンは、仕立ての良い上質なダークスーツの下に傷だらけの身体を隠していた。

大きな傷、小さな傷。深い傷に浅い傷。

それらすべての傷の上には丁寧な補修ほしゅうあとがあり、跡のひとつひとつには、やわらかい女性の香りが残っていた。


あのやなぎ若木わかぎのような女性が、そのつもりもなく、ただ呼吸して生きているだけでなおしてしまった男の傷。

そして井上いのうえは、あの女性がいるからこそ無数の傷を受けながらも立っていられるのだ。

ただ、彼女がこの世に生きているという、それだけの理由で。


松ヶ峰まつがみねさまの大切な方にとっては」


と美貌のホテルマンは、昼なお暗い首都高の下を流れる川を見つめて言った。


「松ヶ峰さまが生きていることが、すでに天祐てんゆうなのです。

遠くからあなたを守り、支え、助けが必要な時には駆けつける。それだけの役割で満足せねばならないこともございます」

「たとえ俺がそれ以上を望んでも、ですか? それはしょせん、かなわないことでしょうか」


ふっと、井上は暗い川面に漂わせていた視線を聡に戻した。

その目元には強い光が宿っている。


「では、強く望み続けてごらんなさい。ねがい続ければ、なにかが変わるかもしれない。いちど言葉に出した恋は、男をどうしようもなくてていくものです」

「井上さんは、何も言わないつもりですか」


聡がそう言うと、井上はふたたび一対の麒麟像きりんぞうを見あげた。

今度はその美貌が、ほのかに笑っている。


「ひとつ、良いことをお教えしましょうか。この麒麟には、羽根がついているでしょう?」

「ええ」

「これは、羽根ではないんです。魚のひれなんです」

「ひれ?」


聡は驚いて麒麟を見上げた。そう言われればこの麒麟の羽根は、流線型でしなやかな細い骨といい薄い肉づきといい、魚のひれによく似ている。

井上のテノールの声が続いた。


「むかし、この日本橋のあたりには魚河岸うおがしが多くありましてね。魚河岸の繁栄を祈願して、あえて魚のひれを麒麟につけたのだとも言われています。

じつは日本橋を大規模補修したときに、この麒麟の羽根も取りかえられているんです。

もとの麒麟の羽根は、今も“麒麟像・鰭(ひれ)”として中央区の郷土天文館におさめられているはずです」

「ほんとうに、ひれなんですね」

「ええ、ですからね」


と言って、井上はいたずらっ子のように笑った。


「わたくしは、時々思うんです。この麒麟たちは、夜になると魚の本性ほんしょうを取り戻して、すぐ下を流れる日本橋川にほんばしがわを泳いでいくのではないかと。

人通ひとどおりのなくなる深夜にこっそり川を泳ぎわたり、海まで出ていくのです。きっと海では、好きなように飛んだり跳ねたりしているんでしょう。

そして朝までには日本橋へ戻って、素知そしらぬ顔をして橋の守りをしているんですよ」


井上の顔があまりにも子供っぽく見えたので、おもわず聡も噴きだした。


「夜になると、本性を取り戻すんですか」

「ええ。夜にだけ」

「昼間は、隠しきっているんですね」

「――ええ。どこからも、誰からも見えないようにしております。それが」


と井上は笑いをおさめて、にじむような微笑を浮かべた。


「それが、彼女の望みですから」

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