第九十九話 この愛情を、世界にさらす覚悟

松ヶ峰聡まつがみね さとしは、人のきかう午後の日本橋にほんばしの上で井上いのうえを見た。

長身を上質のダークスーツに包み、今日は休みだというのに職場に出ていた美貌のホテルマン。

天使さえもあざむくような端正な姿の持ち主は、初夏の気配を広い両肩に乗せてシルバーフレームの奥の両眼をゆるやかに伏せた。


聡の喉元のどもとに、なにかがせりあがってくる。

それは幼いころ、どうにもならないと分かっているわがままをかなえたくて、地団太じだんだを踏んだときの衝動によく似ていた。

いまも、聡は地団太じだんだを踏みたい。


天使さえ足下そっかに踏みつけられるような美貌のホテルマンのえりをつかんで、叫びたくなった。

あのひとを、あきらめないでくださいと。

しかし二十七才になった松ヶ峰聡は、叫ぶ代わりに短く尋ねるのが精いっぱいだ。


「それは、あなたの望みではないんでしょう?」

「さあ、どうでしょうか」


と、井上は美貌にかすかなにがみをのせて、目の前の麒麟像きりんぞうを眺めた。


「何かを望むことは、もうずいぶん昔にやめてしまいました。今ではもう、欲しがりかたもおぼえていませんよ」


聡は、もう一度手を伸ばして青銅製の麒麟像にふれた。

像は台座がひどく高くて、百八十四センチの聡でも麒麟のひづめのようなつま先にさわれただけだった。

それでも、この世のものならぬ生きものは、聡に確かな力を伝えてきた。


音也おとやを愛する勇気を。

聡の恋を、言葉に乗せる気概きがいを。

この愛情を、世界にさらす覚悟を。


聡はゆっくりと口をひらいた。


「俺は、言うだけ言ってみるつもりです。それでうまくいかなくても、何もしないよりは、前に行ける気がしますから」


聡の言葉を聞いて、井上はほう、とため息をついた。


「うらやましい」

「うらやましい? 俺のことがですか?」


聡はびっくりして、有能なホテルマンの顔を見た。


「俺なんてただの若造わかぞうですよ。まだ選挙に出てもいない、ちゅうぶらりんのどうしようもない男です。井上さんのように仕事ができる人とはくらべものになりませんよ」


すると井上は目を開いてあざやかに笑った。


「とんでもない。仕事などはどうでもいいのです。わたくしは、松ヶ峰さまのまっすぐさと若さがうらやましい」

「わかさ?」


聡は思わず、すっとんきょうな声を出した。

それを横目で見て井上は微笑み


「わたくしは、今年で三十六になります。十年前なら言えた言葉も、今ではもう言えません」

「あのかたが、その一言を望まないからですか」


いえ、と言って井上はもう一度笑った。その顔は、見ているのが息苦しくなるほどの美しさだった。


「おれがを、失いたくないからですよ。たいした臆病者おくびょうものだ――さて、松ヶ峰さま。そろそろ東京駅へお送りいたしましょうか」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る