第百話 さびしいさびしい、一匹だけの麒麟


松ヶ峰聡まつがみね さとしに向かってそう言うと、美貌のホテルマンは日本橋にほんばし麒麟像きりんぞうに背を向けてゆっくりと歩き始めた。

聡の目の前にある井上いのうえの広い背中は、男盛おとこざかりの色気を噴きこぼしながらも切ないほどに空っぽで、肩甲骨の下にむやみと空間があった。


それは、本性ほんしょうである羽根を隠してしまっている麒麟きりんだった。さびしいさびしい、一匹だけの麒麟の背中。

一生にひとつだけの恋を、天にふさがれたまま終える覚悟をした男の背中だ。


だが井上の背中を見るうちに、聡の脳裏には、昨夜の女性の“揺らぎ”がよみがえった。

コルヌイエホテルの暗い廊下に井上に背を預けて立ち、背後から男に軽くネックレスを引かれていた女性の姿だ。迷いながらも一度は男の腕に落ち込みそうになっていた、あのしなやかな背中。


あのとき、と聡は長身の井上の後ろについて歩きだしながら考えた。

あの時、あの女性は背後を見もしないで、引き寄せられる指のほうへそのまま倒れ込もうとしていた。

暗いホテルの廊下にありながらなんの不安もなく、まるで背後には、必ず自分を受け止めてくれる男がいると信じきっているように。


そこにあったのは、愛情と信頼ではなかったのか。

聡には、やなぎ若木わかぎのような女性と美貌のホテルマンのあいだに、これまでどういういきさつがあったか知りようがない。

わからないなりに、長い時間をかけてふたりの人間の意地とプライドがぶつかりあい入り組んだ関係を作って、昨夜ホテルの廊下で火花を散らしていたのは理解できた。


もし、と聡は思った。

もし井上の言葉がダークスーツの外へ出ることがあれば、それで世界は変わるだろう。

麒麟像の頭上をふさぐ首都高は消え、井上は昼も夜も自由に世界を泳ぎ回る美しいケダモノになるはずだ。

愛するものを得て。


そして今、羽根を隠しこんだ麒麟は、声に出せない恋情のあげくにとうとうあの女性を手に入れかけている。

麒麟はまだ気がついていないが。

あの女性はきっと気づいている。

聡には、そんな気がする。


そして聡には、井上とあの女性と同じく、聡のひとことで音也と聡の世界も変わるだろうと思うのだ。

変えてやる、と松ヶ峰聡は思った。

変えてやる。俺の言葉と俺の覚悟で、お前の一生を変えてやる。

だから。

帰ってこい、音也。

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