3「断章・ロレックスRef.6538」

第百一話 コーヒーの好みを知るより先に、寝ちまった

松ヶ峰聡まつがみね さとしが、秘書である楠音也くすのき おとやを連れて東京へ行ってしまった翌日の午後二時。

名古屋にある巨大な松ヶ峰家まつがみねけの一階サンルームでは、今野哲史こんのてつしはシャツにデニムというカジュアルな姿のままコーヒーを入れていた。

今野が入れているのは、実家のパントリーからかっぱらってきたコーヒー豆で、焙煎ばいせんはやや濃いめだ。香りはいいがきらいが分かれそうな味だった。


たまきちゃん、濃いコーヒーはだめかもな…」


今野はそんなことをつぶやいて、すでに落とし終わったコーヒーがたっぷりと入ったガラス製のサーバーを、午後二時の陽光の中に透かして見た。

濃厚な茶色ちゃいろの液体が、ゆるやかに初夏の光のなかで踊っている。


「ま、いっか、砂糖を持っていけばいいや」


そう言って、今野はデニムのポケットにサンルームのキチネットから見つけ出した砂糖のスティックを適当に押し込んだ。

今野は料理は綿密にやるが、コーヒーは片手間かたてまだ。

それでも環に自分がいれたコーヒーを飲ませたいから、今野は嬉々としてクラシカルな洋館の中を動き回っていた。


ガラスのコーヒーサーバーとコーヒーカップセットのカップだけを持ち、今野は鼻歌を歌いながら二階に上がるらせん階段に足をかけた。

くすり、と笑う。


「信じらんねえ。あの子のコーヒーの好みを知るより先に、寝ちまったよ…かわいかったな」


今野はほんの二時間ほど前の環を思い出した。

ベッドの上でふるえていた柔らかい首筋。小さな耳と、今野の唇の下で微かに浮き上がった鎖骨。それから今野を呼ぶ愛らしい声。

何もかもが、今野を有頂天にさせた。


経験のない環を思いやって、今野なりに時間をかけてやさしくしたつもりだ。そして今野の身体の下で、環は今野の想像以上の反応を見せた。


「今からあんなに可愛くちゃ、この先やべえよな」


にやっと笑った今野は、軽快にらせん階段を上がった。階段を上がり、ふたつめのドアが環の部屋だ。

まだ、環は眠っているかもしれない、と今野は思った。


環は初めての愛撫に緊張して身体も心も疲れ果ててしまい、今野がとなりで髪をなでてやるうちに、ぐっすりと寝入ってしまった。

環の寝顔を見ながら、今野も眠気をおぼえて二時間ほど眠った。

目がさめたとき、隣に環がいることがたまらなくうれしかったことを、今野は思い出す。


今野哲史は、環が好きだ。

環とのセックスを経て、この先はもっと環を好きになりそうだが、今のままではふたりきりの時間はなかなか作れないかもしれないとも思う。

少なくとも環がこの巨大な松ヶ峰家に住んでいる限りは、二人で夜を過ごすことなどできそうもない。


藤島環ふじしまたまきは松ヶ峰家の箱入はこいむすめのようなものだし、今野は環の兄貴分あにきぶん松ヶ峰聡まつがみね さとしに雇用されている身の上だ。

おまけに聡の秘書・楠音也くすのき おとやからは、環に手を出すなと、おとといの夜にきつく言われたばかりだ。

しかし今野はのんきに


あとのことは聡さんたちが東京から帰ってきてから考えりゃいいや…帰ってくるまでにあと半日あるしな」


とつぶやき、環の部屋の重厚なチークのドアをそっと押し開けた。

部屋の中をのぞきこむ。


「環ちゃん…ねてる?」

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