第百二話 「俺は、すげえよかったんだけど」

藤島環ふじしまたまきの部屋の重たいドアを開けたとき、どん!と今野こんのにぶつかってきたものがあった。

片手に熱いコーヒーの入ったサーバーとコーヒーカップを持っている今野は、あわててバランスを取る。


「うわ…なに?…え、たまきちゃん?」


今野にしがみついてきた環は、いつの間に着替えたのか、ごく柔らかい素材のシャツと黒い台形スカートをはいていた。

今野はコーヒーサーバーとカップを持った手を遠くに伸ばして―――まんいちにも、環に熱いコーヒーがかかってはいけない―――あいているほうの手できゅっと環のまるい肩を抱きしめた。


今野の大きな手が環の肩に沈み込む。女の子の肩はこんなに柔らかかったかな、と今野はいまさら考えた。

それから、ぎゅうぎゅうと抱きついてくる環の頭のてっぺんにそっとキスをした。

環の髪からはかすかに石鹸せっけんの匂いがして、今野のいったんおさまったはずの欲情がふたたび持ち上がりかける。


がっつくなよ、俺。

今野は自分をたしなめつつ、環にささやいた。


「たまきちゃん、どうしたの?」


そっとあいている手で環の頬をでると、今野の手に冷たいものがふれた。


「ん?あれっ、泣いている?」


今野はしがみついてくる環を引きはがして、丸い顔をのぞきこんだ。

環があわてて顔をそむける。

そのやわらかい頬には涙のあとがあり、ぽってりした目じりにこすったような赤みがあるのを見て、今野は自分でも意外なほどにうろたえた。


「どうしたの?あ…身体がどこか痛む?」

「だいじょうぶです」


環は顔を今野からそむけつつ、また目元をこすった。今野は環の手をつかんで、動きをとめさせた。


「あんまりきつくこすると、赤くなるよ。痛いだろ?」

「大丈夫です」


環はもう一度そう言って、くすんと鼻を鳴らして今野にしがみついていた手を離した。それから気を取り直したように、一歩だけ今野から離れた。

今野には、それがさびしくてたまらない。

この子が、ずっと俺にしがみついていたらいいのに…などと考える。


環はもう平気そうな顔をして、くるりと背中を向けて部屋の中に入っていった。今野はその後ろについて歩きつつ


「コーヒー持ってきたよ。飲む?」


と尋ねた。環はちょっと振り返ってから、小さな鼻をひくつかせて笑った。


「いい匂い」

「ちょっと、濃いかもしれない。砂糖を持ってきたから調整してみてよ」


そう言って今野はコーヒーカップに漆黒の液体を注ぎ、環に渡す前にベッドに座るよう命じた。


「まだ捻挫ねんざした右足首が痛いだろ、ちゃんと座って…あ、ひょっとして足首が痛くなった?その…あー、さっき俺がさせたから」

「さっき?」


環がきょとんとしてたずねなおす。今野はおとなしくベッドに座った環を見ながら、やや顔を赤くした。


「その…あれで…いや俺は、んだけど」


環は今野の言う「無理させた」の意味が分かったらしく、ふっくらした頬を真っ赤にしてうつむいてしまった。

それがまた、今野にとってはとてつもなく可愛らしく見えた。


たまんねえな、ヴァージンの子って。


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